私と電子工作


■はじめに

 この、しょうもないWebサイトも、おかげさまで、2001年から今年2014年、
 ここまで続けることができました。もちろん、まだまだ続けます。

 途中、停滞していた時期もあったけれど、・・・いや、近年ほとんど書いてないね。

 続けて書いていた頃は、一番ノリノリだったと思うけど、当時も忙しかったはず。
 夕方に一旦帰宅して(夕食を食べる為)、その後戻って、夜中まで仕事していました。
 夜遅くに帰宅してから、自分の趣味をする時間と余裕があった。

 それと、100番に何を書こうかと迷ってましたね・・・。

 歳のせいか、懐古的になってしまいがちです。
 なんか、気づいたら30年もたっていたという具合ですね。
 何が言いたいかというと、他人事じゃないんで、若い方は、時間を大切にね。

 タイトルは「私と電子工作」としましたが、パソコンや無線もまじっているので、
 区別が難しい部分もあります。エレクトロニクス・ホビー全般ということです。
 わかりやすいタイトル「電子工作」としました。

 ここに書いた事が全てではありませんが、細かい話まで書くと、きりがないので
 適当に省略しました。
 書いているうちに思い出してきて、つい、ごちゃごちゃと書いたりしましたけど。


■幼少の頃

 私が、電気に興味をもつようになった最初のきっかけは何だったのか分かりません。
 ただ、親類に電気関係の職業の方が複数いたので、そこからの影響はあると思います。
 (弱電じゃなくて強電でしたが。電気工事会社、それと電力会社)

 まず思い出したのは、小さな懐中電灯です。
 ライターみたいな形で、ライターよりは大きいんですが、確か緑色のプラスチックで
 スイッチが上部についていて、ニップル電球も上部に並んで付いていたような。
 それを意味も無くチカチカさせたりして遊んだような記憶があります。
 夜、寝る時にも寝床に持ち込んで、天井を照らしてみたり、布団の中を照らしたりして
 遊んだと思います。そんな物でも夢中になれたのです。

 電気とは関係ないけど、ゼンマイ式の目覚まし時計を当時持っていました。
 あれは確か、旅行用だったと思います。折りたたみ式で。
 ふたをあけて中の時計を立てると、横から見て三角形になります。
 図示できれば分かりやすいけど。

 当時、目覚ましの使い方が理解できていなくて、自分で鳴らすものだと思っていました。
 朝、目覚めたら、自分で目覚まし時計を操作してベルを鳴らす(笑)。意味の無いことをしていました。
 自分でも、これがなんの役に立つのか、釈然としなかった。
 自然に目が覚めるし、あまり必要性がなかった。

 その目覚まし時計も結局、壊してしまいました。最初に針が無くなって、カバーのプラスチックも
 割れたり無くなったり、その状態で何年か持っていたんですが、あとは記憶にありません。

 それと、ラジオやレコードプレーヤー等を、片っ端から分解したのを覚えています。
 確か、近所の子が遊びに来たときに、いっしょにレコードプレーヤーを壊した記憶があります。


●雑誌

 最初に買ってもらった雑誌は、「子供の科学」でした。確か、1977年か1978年です。
 毎月ではなく、たまに島原市まで連れて行ってもらった時に買ったぐらいで、

 1977年か1978年の?月号が1冊、1979年の?月号が1冊、といった具合で、
 あとは「ラジコンマガジン」も1〜2冊あったと思います。ラジコンやらないけど、書いてある
 内容に興味があったから。

 その何冊かしかない雑誌を、そればっかりボロボロになるまで何度も何度も読んで
 いました。本当にボロボロになっていた!

 これは、その当時に持っていた号ではないけれど・・・ほぼ同じ年代のものです。
 (近年、古本屋から購入したもの)

 「子供の科学」 1977年10月号

 (左) 綴じ込み、泉弘志さんの製作記事
 (右) 科学教材社の広告、ラジオキット

 

 1石・高1式バラックラジオ
 いま見たら簡単だけど、当時はとても難しく感じただろう。

 小学生になってから、同様の製作記事を見て、製作に挑戦したことがあります。
 確か、1石のレフレックスだったかな?

 ところが・・・何も知らなかったし、部品は無かったし、鳴らなくて当然の結果に
 終わりました。
 ラグ板もないので、基板の代用として、厚紙にキリで穴をあけ、部品を取り付ける
 ことを考えました。
 配置と配線を考えたけど、こんがらがってしまって、その段階で既に挫折していました。

 バリコンがなくて、同じようなツマミが付いて回すやつならいいだろうと、
 ジャンクのテレビからはずしたボリュームをつないだりして、もうメチャクチャ。

 でも、やってみる、やってみた、どうなるかわかった、それが大事だと思います。
 成功だけが大事じゃないと思います。


 右の、ラジオキットの広告は、何度も何度も、穴があくほど眺めていました。
 ホーマーや、エース、チェリーなどのキットメーカーの製品が、こんなにあったのです。
 最高峰は、チェリーの8石スーパーかな。個人的には。
 それは2007年になって初めて手に入れました。科学教材社の店舗に初めて行って
 買ったものです。

 この広告の裏面は、ラジオ以外のキットがたくさん載っていました。後年、この面は
 ラグ板のキットの一覧になっていたと思います。ネオン管がチラチラ光るやつとか。


 (左) 同じく科学教材社の広告、FMワイヤレスマイク等
 (右) これも欲しかった!「学研マイキット」(たぶん)

 

 もろに「盗聴器」って書いてありますから(笑)

 WL-303は、上からリード線のアンテナが出ているけど、どっちが上かと悩んだのだ。
 小学生の頃に買った時、この広告写真を思い出してみたら、上下逆だったもん。
 フタを上下逆にはめてある。
 最近になって、改めて考えてみたら、写真を撮るためにそうせざるを得なかったのだと
 思う。アンテナ線が出ているほうを下にしたら立たないから・・・たぶん、そうだ。


 超小型のラジオとか・・・特殊ICって何?

 2段目の左から2番目に、スパイダーコイルのラジオがあるけど、
 当時は何も知らないから、このコイルが回るものだと思っていた。
 だって写真を見たら、つまみの裏側にあるし、つながっているのかと。
 なにしろ、ここに書いてあることが全てですから。あとは想像力か。電話して聞くか。
 ガキだから電話する勇気がなかったんだよな。一度でもいやな事があったら、怖くてだめ。

 マイキットは、さすがに値段が(電子ブロックも同様の値段)・・・
 親に、買ってほしいって訴えたけど、ダメ、ダメ、ダメ、でしたよ。
 その時に買ってもらっていたら、いまごろ歴史が変わっていたかもしれんぞ。
 ビッグチャンスを逃したね!
 近年、復刻版が出たけど、いまさら買っても遅いよ。(持ってるけど)


 (左) 天体望遠鏡も欲しかったな。
 (右) ロケッティーは当時知らなかった。模型用のロケットエンジンです。

 

 当時、こんな立派なものは無理だったけど、オモチャの望遠鏡は持っていました。
 銀色の紙筒でできていたと思います。ちゃんと見えたはず。記憶ないけど。

 ある時、突然なくなってしまって、どんなに探しても出てこなくて、ガッカリでした。
 ずっと気になって、そのことばっかり考えて・・・何度か探してみた覚えがあります。
 床下までのぞいてみたんだよ。

 それが見つかったのは、母の実家(私は小2まで住んでいた)の一部を改築した時で
 した。壊した残骸の中から見つかった。紙筒は吸湿してボロボロだったけど、確かに
 自分の持っていた望遠鏡だった。見つかってうれしかったけど、その変わり果てた姿は
 悲しかった。もう捨てるしかない状態で。

 いったい、どこに隠れていたのか、それとも親が隠したのか。たぶん後者の可能性が高い。
 私が何かいたずらをしたから、罰として隠してしまったのだ。


 話は変わって、ロケッティーだけど、これは当時知らなかった。
 それは何なの?どこに売ってるの?そういう情報は雑誌に頼るしかなかった。
 近年になって、森博嗣さんの本を読んでから、初めて知ったような具合。

 いまは安全とかうるさいから、そういうロケットエンジンは販売できないのかもしれないね。

 余談だけど、やはり「子供の科学」にあったマブチモーターの広告、裏表紙のカラー広告が
 興味深かった。見ているだけで萌え萌えだった。
 その中でも最も関心があったのは、空中モーターでした。
 何も知らないから、それさえ付ければ何でも空を飛ぶと思ったわけよ。夢のマシンだと。
 ただ、いくらだったか、当時\700ぐらい?ガキの小遣い銭じゃ買えなかったし、かなりの
 巨額な投資なので簡単には決められませんでした。
 近所のオモチャ屋に空中モーターは売ってなくて、でも水中モーターは有ったので、
 せっけん箱などにくっつけて風呂で遊びました。


●テレビ

 ナショナルの木製キャビネットのカラーテレビが家にありました。

 ナショナル、とか、カラーテレビ、という言葉は最近聞きませんね。パナソニックになったし、
 テレビはカラーなのが当たり前。

 古い漫画には、4本足のテレビが出てきますが、あれはもっと前の世代のものです。
 細い足が4本と、頭には輪っかみたいな室内アンテナがちょこんと載っている。

 うちにあったのは、確かに足は4本だけど短足でした。
 いま思いだしてみれば、キャビネットの大きさのわりに画面は小さかったです。
 家具調テレビですね。

 ナショナルが「人工頭脳」と称して売っていたやつかもしれません。
 (バラクターダイオードを使用した機種を人工頭脳と称していたようです)

 チャンネルは、いまの若い人は知らないと思いますが(こんなことを言うオジサンになった)、
 ロータリー式、つまり、ツマミがついていて、グルグル回してチャンネルを変えるのです。
 VHFとUHFの二つのツマミがありました。

 VHFは、1から12までと、U(UHFのこと)の切り替えで、回すと、ガチャ、ガチャ、となります。
 チャンネルの表示窓(画面には出ないんだよ!)に、チャンネル番号が表示されます。
 黒いプラスチック板に透明の数字を裏から豆電球で照らしたものです。(当然、豆電球は切れる
 ことがあります。)

 UHFは、横長の表示だったのかな・・・忘れたけど。
 13から62まであって、現在のチャンネルを示す針がタテに見えていて、UHFのツマミを回すと
 それを左右に動かせるわけだ。
 たとえば、13とか22あたりから62あたりまで行くのは、つまみをグリグリ回していかないといけない。
 幼少時はドラえもんは始まっていなかったが(注:昭和53?54?年開始のほう)、
 小学1〜2年の頃だったかな。日曜の朝8:30からだったと思う。猛ダッシュでチャンネルを
 あわせたものだ。

 ある時、うちにセールスマンが来て、画面が大きく見える(?)というレンズを買ったのです。
 取り付け用の金具があったけど、それで画面の大きさぐらいのレンズを固定していました。
 どんなだったか、記憶があいまいですけど、不恰好だったのではないでしょうか。
 いつの間にか取り外されてしまい(見づらかったのか?)、その後、私はそのレンズを遊び道具に
 していました。
 なんに使っていたかというと、たとえば、ダンボール箱の秘密基地の窓とか・・・。


 それから、これは小学生の頃ぐらいまで誤解していたのだが、真空管を使ったテレビは
 白黒しか表示できないと思い込んでいた(笑)

 実際、真空管式でカラーもあるので、それは間違っているし、カラーか白黒かの違いは
 基本的にブラウン管の違いであって、カラーの回路は真空管だろうがICだろうがトランジスタだろうが
 実現できるわけです。

 白黒の時代には真空管が多かったから、白黒=真空管と思い込んだのでしょう。
 トランジスタ、IC式でも白黒テレビはありましたし、実際に持っていました。(中学の頃)

 安いテレビとか、ポータブルのやつは、ずいぶん後まで白黒が生き残っていました。
 もちろんそれらはトランジスタ、IC式のものです。


●ポケットラジオ R-1025 

 ナショナルのポケットラジオ R-1025 を買ってもらい、愛用していました。
 ネットで検索すると、写真があるでしょう。私のは赤色でした。

 記憶にはないけれど、前科(笑)があるので、「絶対に壊すな」と親から言われたはずです。
 でも、・・・やっぱり壊してしまいました。

 バーアンテナを折ってしまい、それを接着剤でくっつけても、直りませんでした。
 音が小さいまま、何をしてもだめ。いま振り返ってみれば、たぶん、IFTやらトリマをグルグル回して、
 調整をめちゃくちゃにしてしまったのでしょう。コアを割ったら、そこで終わりですからね。

 なんでバーアンテナを折ってしまったかというと、たぶん基板を取り外して見たかったんだと
 思います。何も分からずに、マイナスドライバーをつっこんで、こじっていたら、パキッと折ったん
 でしょう。

 コアを木工用ボンドでくっつけようとしたけど、つかなかった記憶はあります。なんで木工用
 かというと、手近にあったからです。適切じゃないけど、それしかなかったから。

 電池ホルダーに近いところに検波用のゲルマダイオードがあります。黒IFTのそばです。
 当時、私は、これが「光る」ものだと思い込んでいました。それで、夜や暗いところで
 目をこらして、光っているところを見ようとしました。でも光りませんでした。(当たり前田)

 発光ダイオードじゃないから光るわけないんですが、発光ダイオードは知っていたことになり
 ます。魚釣りの浮きに、発光ダイオードが使われたのは小学生の頃からじゃなかったかな。
 あのピン型のリチウム電池を使う浮き。懐かしい。

 その後、同じラジオを拾って修理を試みた話は、小学生の頃の話に書きます。

 そういえば、基板に不思議な模様が描かれているな〜と思っていました。あれはプリント抵抗
 ですね。壊したら、定数がわからないからお手上げです。
 20代の頃に、電解液漏れのビデオデッキを修理した時にも、やはりプリント抵抗で・・・電解液で
 プリント抵抗が腐食していたから、回路図を取り寄せて定数を確認し、普通のアキシャル抵抗を
 つないで対応したっけ。

 R-1025の話に戻りますが、音が小さいのは、もしかしたら下記のブログに書いてあるような
 故障だった可能性もあります。
 Nationalラジオ R-1025の修理 (トップ: おんにょの真空管オーディオ

 とっくの昔に現物は捨ててしまったので、もう永遠の謎だけれど・・・。

 いろいろ調べてみたら、けっこう情報があって、テクニカルガイドも見ることができました。
 赤いやつの写真も見つけて、とても懐かしかった。
 テクニカルガイドの記載によれば、昭和49年11月発売だったようです。

 なぜか20代の頃、近所の人から修理を頼まれたR-1055(1025ではない)は、結局、返さなくて
 よくなったので、実家にまだあると思う。


●放送の配線をたどる

 保育園の頃、スピーカーの配線をたどって、アンプ、プレーヤーの所まで行った事がある。
 そしたら、ここには入るなと怒られた。あーあ。


●アンテナ切換スイッチ

 小さいナイフスイッチで、本来はテレビアンテナの切換に使ったやつ・・・写真がないけど、
 それも私のオモチャだった。何かといえばそれをいじくりまわしていた。

 もう、とっくに廃止品になっていて、型番はSW-7620かな?(未確認)
 つい最近まで、ホームセンターの電気部品コーナーでも見かけていたと思う。

 サトーパーツのWebサイトで調べたら、2005年4月の廃止品情報に載っていました。

 廃止品情報を見ていったら、ほかの見慣れた部品も廃止に・・・うーん、さびしいねえ。


■小学生の頃


●半田ごて

 半田ごては家にあったけれど、危ないから、父がいない時には使えないことになって
 いました。

 確か、白光のJUNIORシリーズ、品番は331かな。60Wでした。(いま調べた)

 コテ先は銅がむき出しで、メッキされていないものです。
 使っていくうちに酸化して黒くなり、半田をはじいて作業しにくくなるので、ヤスリで
 削りながら使うものです。銅を露出させてから、半田を流してやります。
 また、銅が食われてしまうので、先端が変形します。やはりヤスリで成形する必要が
 ありました。このように、使うときの手間がありました。

 コテ台なんか無かったので、クッキーの空き缶とか、適当な物を使っていました。
 濡れスポンジで先端をぬぐう、なんて発想もなかったのです。あとで本を読んで
 知ってから、濡れ雑巾は使うようになりました。

 割れたグラインダーの砥石を拾ってきて、それをクッキーの缶の中に入れておき、
 それをヤスリの代用として、コテ先をゴリゴリこするようにしました。これを高校生ぐらいまで
 ずっと使っていました。重いので、コテ台(クッキー缶)の座りもよくなりました。


●初めてのラジオキット 2T-100

 最初に買ったのは、 ホーマー (共和製作所)の 2T-100 でした。小学校5年の頃
 だったか?

 現物は既に持っていませんが、ネットで探すと写真があります。

 たとえば、ここです。「ホーマー製、2石トランジスタラジオ」
 (トップページは、こちらから。「こりゃまったどうじゃろかい」/蘭一輝さんのサイト)

 型番は 2T-100 だけど、外観デザインが異なるものが存在しているようです。
 私が持っていたのは、上記サイトの写真と同じものでした。

 ぱっと見た感じ、スピーカー内蔵のように見えますが、スピーカーはありません。
 私も買うまでは(見た目で)スピーカー内蔵だと思い込んでいました。じつは、イヤホン専用です。

 また、写真では大きさが分からないと思いますが、本体は小さいものです。
 手のひらにおさまるぐらいでした。
 左側にあるのは、ストラップを取り付ける穴です。
 周波数表示窓の上にある金属の部品は、アンテナをつなぐ端子です。
 回路方式は、2石レフレックスでした。

 いまは簡単だと思うけど、当時は悪戦苦闘しながら組み立てました。

 さっそく、部品を台紙からはずす段階で、ダイオードを割ってしまいました!
 あーーー、もうーーーと叫びながら?、ジャンク箱をあさって、確かあったはずだ、
 あったはずだ、あったはずだ・・・・・・あった、テレビのジャンク基板に同じ(ような)物が
 付いていた。これをはずして使えばOK!

 いきなりつまずいたけれど、これで製作を再開できました。

 しかし、現実は甘くありませんでした。
 最初はまったく鳴らなくて、何が悪いのかも分からなくて弱ったものです。

 まさか、あのダイオードがダメなのか? 何が正しいのか分からないから、
 不安でしょうがありませんでした。

 神棚にあげて神だのみしたら直るかと思ったがダメでした。当たり前田。

 根気よく調べていったら、トランジスタの向きが間違っていたりとか、いくつかのミスが
 見つかり、最後にバーアンテナの線のつなぎに問題があることに気づいて、線の
 被膜をカッターで削ってから慎重に半田付けしたら、放送が受信できるようになりました。
 あっ!鳴ってる! この感動の瞬間!!


 あとで小学校の担任から、お前、ラジオを作ったのか?と聞かれました。
 先生は、もともとは無線技師を目指していたようで、興味はあったようです。

 遠足の時にラジオを持っていって、イヤホンで聞いていたら、理科の先生から
 「補聴器か?」と聞かれたので、自分で組み立てたのですと話しました。
 そしたら、すごいなあとか、褒められたので意外でした。

 いらんもの持ってくるなとか怒られるんじゃなくて、自分で組み立てたことを評価して
 くれたり、そういう先生たちばかりでよかったと思います。


 ちなみにそのラジオは、学校の合宿に持っていった時、なくしてしまいました。
 正確に言うと、盗られたのです。
 あとで友人の家で発見し、本人はトボケていたんですけど、半田付けを見ても自分が
 組み立てたものとしか思えませんでした。普段の行動から考えても盗んだのは間違いありません。
 同じ家から、父がなくしたカメラも出てきました。

 ラジオは、さらにその後も、また別の友人(と言ってよいのか)に盗られて、結局、どうしたっけな。

 あとで堂々と、お前のところから持ち出したのに気づかなかっただろうと言ったやつもいて、
 本当に周囲は泥棒だらけでした。(このときは自分の顕微鏡セットの備品を盗られていた)


●6石スーパー SP-6000 ホーマー 

 これは難しそうだったけど、丁寧に組み上げて、鳴らすことができました。

 持ち歩いて使っていたら、祖母が見て、これ欲しい、売って!と言われたけど
 結局、売りませんでした。

 まずかったのは、ペーストを使ったことでした。あとで鳴らなくなってしまったのです。
 どこが腐食したか、絶縁が悪くなったか・・・?

 キットの説明書に、部品のリードを紙やすりで磨けば、半田付けがきれいにできると
 書いてあったようで、それにペーストをプラスすれば、最高だろうと考えたんでしょうね。

 量の加減もわからずに、ドップリくっつけたりして・・・基板の裏はベタベタでした。

 これを直すにも、どこをどうしたらいいのやら、どこが悪いのやら、途方にくれるばかりでした。

 親類のおじさんに聞いたら、トランスが断線してるんじゃないのか、と言われただけで
 直してくれるわけでも、それ以上のアドバイスがもらえたわけでもありません。

 どうやって直したか忘れましたけど、その後、自力で直したはずです。
 当時できることといったら、半田付けを全部暖めなおすぐらいでしょうか。たぶんそれを
 したのではないかと思います。

 結局、最後には部品取りをしてポイ!
 とっておけばよかった。もったいなかった。貴重なのに。


●ゲルマラジオ GR-15 ホーマー (型番は間違ってるかも) 

 2石と6石と、ゲルマ、それぞれをいつ作ったのか時間関係が分からない。もしかしたら
 6石を作ってからゲルマを作ったかも。そうだったら、順番が変かも。

 普通は、基本のゲルマから徐々に難しいものにステップアップしていくものだろうけど。
 2石の次に6石を作った、この順番は間違いない。

 ゲルマは、簡単そうなので早くから手をつけていたはず。小学校の図書室にあった本などを
 見て、拾ってきた真空管ラジオのバリコンなどを利用して作ったけど鳴らなかった。

 市販キットのゲルマラジオで作ったのは、ホーマーのものでした。
 その前に、自作をしたと思います。それは次項に書きます。


●ゲルマラジオ 自作

 ゲルマラジオは、
 バリコン、コイル、ダイオード、イヤホンの4つを組み合わせて、アンテナ、アースをつなげば
 鳴るという簡単で電源のいらないラジオです。

 簡単なので作ってみたけど、なかなか鳴らすことができずに苦戦していました。
 なぜ、だめなのかも分からなかった。

 いったんあきらめても、またしばらくして思い出しては作って試してみて・・・を数回繰り返したと
 思います。

 だめもとで、あれこれ試しているうちに、ふと気づいたことがあったんです。
 バリコンの端子のつなぎ方を変えてみたら、イヤホンから音がした。あれっ?なんだろう!



 上の写真はエアバリコン(2連)の例です。私が持っているものです。
 ゲルマラジオには2連は必要なくて、単連(変な言い方)で十分です。
 2連の場合は片方だけ使います。

 どんなふうにつなぎ方を変えたかというと、片方をフレームに、もう一方を
 トリマ側につないのです。(トリマは、上の写真では反対の面にある)

 ローター、ステーターという呼び方でしたっけね。
 バリコンによっては、A(アンテナ)、E(アース)、という記号が打ってあるものもあったと思います。

 そういうつなぎ方をしないと「コンデンサ」にならないのです。
 二つの極板の間に、誘電体としての空気が存在するから、エアバリコンなのです。

 ところで当時、コイルを巻くための線は、テレビの偏向コイルをほぐして使いました。
 あるいは、ディレイラインのコイルを使ったこともあります。
 ディレイラインは、あとで小型のモジュールになりましたけど(セラミック?)、はじめは
 細長いコイルが基板の上に横たわっていたのです。
 これらから得られた細い線を、コイルやワイヤーアンテナ用として活用していました。


●FMワイヤレスマイク FM-WL303 ホーマー 

 簡単に言うと盗聴器ですな。
 いや、普通にワイヤレスマイクとしても使えるわけです。使い方はあなた次第ということで。

 当時、島原市にあったユニード(現在はダイエー)のおもちゃ売り場(あおき)に売られて
 いました。ガラスのショーケース内にあって、店員さんに言って開けてもらわないといけない。
 ホーマーのラジオキットや、学研の電子ブロックも、そのショーケース内にあったと思います。

 現物の大きさはマッチ箱ぐらい。マッチ箱といっても分からない人もいるかもしれない。
 桃印の徳用じゃなくて、うーん、なんか適当な物、身近な同じサイズの物は無いかな。

 その小さくて黒い箱から、リード線が80cmぐらい垂れ下がっていて、それがアンテナでした。
 箱の側面にスライドスイッチのツマミがあり、それをONにすると周囲の音を拾って
 FMで送信するものです。説明書には200mまで飛ぶとか書いてありました。
 それが本当なら、電波法にふれるのでダメでしょう。

 実際どうだったかというと、記憶がほとんどないんだけど、そんなに書いてあるほど飛ばなかった
 ような気がするな。建物の中と屋外では飛び方も違うけれど。
 どこまで飛ぶかは、まず間違いなく当時試したはずです。遊びに来た友達に持たせて、遠くに
 向かって歩かせておいて、自分はFMラジオでモニタする。

 これも確かな記憶じゃないけど、電池は単5が1本で、36時間もつと説明書には書いてあった
 と思います。
 そんなにもったかなあ?ずっと電源を入れっぱなしにして、たとえば前日にONにしてから
 翌朝や翌々日にラジオをつけて聞いてみたりした記憶はある。

 子供は、なんでも試してみないと気がすまないのだ。

 当然だけど、ずっと一定の性能を維持するわけではない。電池が消耗するにつれて、
 徐々に出力も下がってくるはずだ。それに簡単な発振回路だったから、一晩たつと
 周波数がずれていたような気もする。さっき書いたように、翌朝にラジオをつけて
 聞いてみようとしたら、ちょっとダイヤルを回してやらないと受信できなかった。


●AM/FMワイヤレス送信機 FB-2 光波無線 

 これはエレックセンターの広告を見て欲しくなったもので、キットを買ってもらいました。

 ある日、学校から帰ったら小包が届いていて、もう、飛び上がって大喜び。大興奮!!
 さっそく作ってみたっけ。

 電解コンデンサのピン間の細かいところが半田付けできた!とか、そうやって騒いだことは
 覚えています。いまではどうでもいいことだけど。

 ところが、うまく動作せず、ガッカリ。

 とくに、説明書に書いてあった改造箇所がよく理解できなかったと思う。
 基板の半田面にジャンパー線が1本か、あと何かあったような。

 それだけじゃなくて、この機種はいくつかのバージョンがあり、AC電源で使うものもあった。
 私のは電池のみ。
 そのほかのバージョンのものと共通の説明書だから、ごちゃごちゃして分かりにくかった。

 その後、あれこれいじくり回して、どうにかこうにか、FMだけは送信できるようになりました。

 でも、AM送信はどうしてもできなくて、何度もチャレンジしたけど、最後までできなかったのです。
 本当はAM送信ができるようにしたかった。

 当時あまりFMラジオは普及していなかった(と思っていました)。
 やはり海賊放送(?)をするならAMだろうと・・・確信していました。

 説明書にはアンテナをのばすと飛びすぎて違法だからやめてくださいと書いてあったようですが、
 そりゃもう、ガキでしたから、アンテナをのばせば飛ぶのか、よし飛ばそうとしか思わないわけ。

 当時聞いていた北京放送(中国国際放送、日本語)に対して、強力な電波で大陸まで飛ばし
 こちらからも声を送って、交流できないかという妄想を抱いていました。

 残念ながら、AM送信が動くまでには至らなかったから、電波法違反にもならずに済んだ
 というわけです。(大陸まで届く出力もなかっただろうけどね。QRP?)


●無線への興味

 友達が持ってきたCBトランシーバーにも、ロングワイヤーアンテナをつないで遊びました。
 その頃、トラックの違法無線の交信ばかりで、ガキの入り込む隙がないんですよ。空きチャンネルが
 ない。
 だからムカついて、そのオッサンたちに対抗してやろうと・・・○ンコ、○○コ、○ン○ン!!
 (※いかにも小学生)

 それは電波に載せてはいかんだろうという言葉を色々叫んでみたり(笑) 挑発していたわけです。
 オッサンたちが反応してきたら、それはそれで面白いなと思っていました。
 だいたい、そんな小さいトランシーバーで、アンテナつけたって届くわけがないけどね。
 相手は数百ワットも出して、日本のどこを走っているのかわからないのに。
 もしオッサンたちを怒らせても、こちらの所在なんか分からないから、トランシーバーの電源を
 切ってしまえばそれっきり。

 ※補足: ワンコ、ニャンコ、ワンワン (たぶん。かわいいねー。)


 当時、学研のトランシーバーなんか有名でしたね。
 何種類もあって、一番安いのから高いのまで。一番上のは500mW出せるんだったか?
 私が友人から借りて遊んでいたのは、一番安いやつでした。

 学研のトランシーバーの広告には、一番安いのから高級機まで、何種類だったかなあ。忘れた
 けど、10種類はなかったと思うけど、買えないから、ひたすら眺めていました。


 アマチュア無線には興味があったが、知らない人と話すことに抵抗がありました。

 結局、免許を取ったのは20才頃でした。確か、小学生の頃、一番近い試験会場は熊本だったのでは
 ないでしょうか。そこへ行くのもなかなかね。

 免許をとった後で、開局するのもいろんなハードルがありました。
 トランシーバ買うといっても、簡単に買える値段じゃなかった。申請の手数料も・・・現実を知ってガッカリ。
 もし開局しても、知らない人と話せないよと悩んでいました。

 それでアマチュア無線には縁がなくて、現在は従事者免許を持っているだけです。
 電波行政は、現在は総務省、以前は郵政省でした。
 郵便局と同じ役所の管轄ということで、郵便局の窓口で身分証明を示す必要があった時、
 (学生の頃)運転免許が無いので、アマ無線の免許を見せたら、それはダメですと言われてガッカリ。
 「これ、郵政省ですよ」と言っても、ダメだって。住所とか書いてないからダメみたいだ。
 なんだ、役立たずだな〜と思いました。
 終身免許、更新なしだから、住所は書いてないのでしょう。書いてあったら却って不都合。


●ポケットラジオ復活編

 小学校に入る前(たぶん)に買ってもらったけど、やっぱり壊してしまったポケットラジオ R-1025、
 たまたま友人の家に遊びにいった時、同じ機種の基板を見つけたのです。近くの排水溝の水が
 干上がっていて、その基板が転がっているのが見えた。おお!これは見覚えがあるぞ!!と
 拾って持ち帰りました。

 ひどくサビたりしてなかったので、動きそうな感じはしたけど・・・
 自分が持っていた壊れたラジオの基板と入れ替えて、試してみたことは覚えているけど、
 その後どうしたのかは、記憶がありません。


●パナペット

 これは持っていなかったけど、行きつけの床屋さんにあって、非常に気になっていた。
 ネットで検索すると分かるが、面白い形をしたラジオである。
 ボール型で、スイッチはチェーンをひっぱるようになっていたと思う。
 行くたび、いつも同じ場所に置いてあったので、使っていたのかいなかったのか不明。

 パナペットは完成品なので、ぜんぜん電子工作とは関係ないけど、
 気になってしょうがなかった物のひとつでした。


●放送部

 5年生、6年生の頃は、学校の放送部に入って活動していました。

 まあ、その本当の目的は不純でした。放送部員なら、各種の放送機材に堂々と触れる
 ことができます。そうでなければ、勝手に触れることも許されませんでした。

 学校のチャイムの機械も放送室にありました。
 壁に取り付けてあり、時間が来ると自動的に動き出しました。
 箱の中央上部付近に小さいガラス窓があり、中の機械が動くのが見えました。

 フタをあけると、中には弦?というのかなんと言うのか、金属棒が数本並んでいて、
 それをカム仕掛け(だったかな?)の小さいハンマーが叩いて、音を出すというものでした。
 いまだったら電子回路でやってしまうんでしょうけど、これはほとんどメカでした。

 弦を叩いた音をどのようにして拾って電気信号に変えているのか。知りたいことだらけでした。
 このチャイムが、いつも気になって気になってどうしようもなかったのです。その、音が出る
 カラクリとか。まねして作れないものか、考えていました。
 作って、それをどうするのか、といったことまでは考えていませんでしたけどね。

 放送部は、主に、昼の給食の時間帯に活動していました。お話を読んだり、レコードを流したり。

 昼の時間になると、給食をトレーごと持って、自分のクラスから放送室へ移動しました。
 いつも三人でやっていたと思います。

 ひとりは上級生で、警察官の娘だったか、うるさい女でした。しょっちゅうケンカしていました。
 よく蹴られたし。いまごろは婦警さんになって取り締まりでもやってるでしょうか。


●あこがれの秋葉原 

 電子部品の町、秋葉原に行ってみたい。
 でも、やっぱり秋葉原は遠い。

 父と、いつか行こうと話しはしたけれど、結局実現せず。

 実際に行ったのは、20代も後半になってから、会社の用事で行ったのが最初でした。


●大好き!スーパービデオ 

 大阪のジャンク屋さんで、とくに電話関係のジャンクが多かったと思います。
 「ラジオの製作」や、「CQ」誌に広告が載っていました。

 幼い頃から、電話や交換機への興味が人一倍強くて、
 NTTの広告チラシ(親子電話やFAXが紹介されている)を読みふけったりしていた子供でしたから、
 それが実際に買える店として、スーパービデオは萌え萌えな存在でした。

 (昔の「トランジスタ技術」誌の広告より)

 ここから送られてきた荷物は、クッションとして、トラ技を破った紙が丸めてたくさん
 入っていました。

 ある時、プッシュホンを買い、勝手に自宅の電話回線につなぎました。

 既存の黒電話とブランチ(並列)につないでいたので、電話がかかってくると
 いっせいにジリンジリン鳴ってうるさいこと!! 母親から、うるさいヤメロ、余計なことを
 するなと怒鳴られました。

 

 磁石式電話機41型は買っておけばよかったなあ。インターホンとして使えたのに。
 (ハンドルを回すと相手のベルが鳴る)

 これが最後の砦、と称して?、光ファイバーだらけの通信センターで唯一、連絡用として
 この電話機が使われているという記事を何かで見たことがあります。光ファイバーが全部だめに
 なっても、これだけは大丈夫、という担当者の話。

 ミニファクスは2台買って(上記の広告のものではなく、もっと安いやつだったはず)、
 2台を線でつなぎ、片方から送信してもう片方から受信紙が出てくるのを見て、喜んで
 いました。コピー機の代わりに使いましたけど、A5判以下で、しかも、切り離せる紙じゃないと
 スキャナーにかけられない。伝票なんかはいいけど。
 本をコピーしようと思ったら、そのページを切り離さないといけなくなるから不便でした。

 スーパービデオの店名の由来はわかりませんが、おそらくビデオ屋さんでは?
 実際、さらに昔の広告には、放送局の業務用ビデオ(でっかいやつ)が出ていた記憶も
 あります。ちょっと欲しかったけど、どこに置くのか考えてあきらめました。
 テープは、あれは2インチですかね、超幅広のオープンリール。たまらんですね。

 ファクスは、無線用として使う人が多かったようです。

 私が買ったやつは、電話線が4本出ていて、意味がわかりませんでした。
 普通は2本でしょう。
 なんか特別な回線用なのかな〜と思いながら、適当に2台をつないだら通信できたので
 これでいいやと、そんな調子で使っていました。


●ラジカセ

 工作じゃなくて、修理の話になりますが・・・当時にしては珍しく修理に成功した例です。
 直すより壊すほうが多かったな。

 ナショナルのMAC FF (RQ447) 448だったかも。

 これは当時、ゴミ処理場のおじさんからもらったものです。

 何といっても、FMワイヤレスマイクが内蔵されているのがうれしかった。しかも、ラジカセ本体から
 取り外して、単独でも使用できる。

 ただ、電池を入れておかないと、内蔵マイクとして機能しないんだったと思います。
 説明書も何もないから、使ってみて分かった事も多い。
 (コンデンサマイクを作動させる為の電源が必要だったのでしょう)

 短波も聴けるし、なかなか楽しいラジカセだったんですが・・・

 ロングワイヤーアンテナを張って、それをラジカセにつないだままにしておいたら、
 朝からラジオが鳴らなくなっていた。夜中に鳴っていた雷が原因だったのでしょう。

 その後、わからないなりに調べて、トランジスタが壊れているのをつきとめ、
 同じ形のものをジャンクの中から探し出して交換したら、鳴るようになった。
 トランジスタは、(マイクロディスク形)

 型番は不明で、ただ503としか書かれていなかったので、それだけが頼りでした。
 305だったかも?忘れました。


●周波数カウンタ、マーカー (あこがれただけ)

 金がなくて買えないけど、通販の広告を飽きることなく眺めていた。
 その中に、周波数カウンタや、マーカーというものが紹介されていて、その二つが欲しかった。

 なぜかというと、前に書いた短波付きラジカセで周波数を読み取りたかった。
 ラジオの製作などに載っていた海外放送情報の周波数に正確にあわせたかったのだが、
 ラジカセの目盛りでは、本当に合っているのかどうか分からなかった。

 実際、標準電波JJYで10MHzの位置は分かったけれど、目盛りの10はズレていた。

 周波数カウンタは分かるけど、マーカーというものを当時は正確に理解していなかった。
 受信機の目盛りの校正に、と書いてあった。
 雑誌の広告といっても、写真も図もない。文章で5行程度の説明と価格だけ。あとは想像力。
 なんか分からないけど、それがあれば、周波数カウンタにはかなわないが、目盛りを
 校正できる。いまよりも目的の放送の周波数に合わせやすくなるに違いないと確信した。

 値段から考えると(安かった)、そう複雑なものでもないんだろうな、と思った。
 使い方も何も分からなかったけど。

 結局、買わなかったけど、マーカーというのは高調波を利用したものだと思う。
 簡単なTTL-ICの発振回路でも良いのだろう。たとえば1MHzのクリスタルで発振しておき、
 その奇数倍の高調波が3、5、7、・・・と出るので、それを受信することによって、
 周波数の目安となり、その位置に印をつけることができる。あるいは、トリマを調整して
 目盛りを正しくずらしてやることができる。記憶に頼って書いたけど、そういう物である。

 ラジオの製作のBCL記事に、高級なBCLラジオ(デジタル周波数表示)が載っていて、
 テンキーで周波数を打ち込むだけで受信できるなんてスゴイ。

 私はラジカセしかなかったので、注意深くツマミを回して合わせていた。
 たぶん、この周波数だろう、ぐらいしか分からなかった。それらしい放送が聞こえるけど、それが
 本当に聞きたい放送局の周波数なのかどうか不明だった。


●通販

 はじめて利用した通販はエレックセンターだったのか、忘れました。
 たぶんそうだと思います。


●雑誌

 初めて買った「ラジオの製作」は、たぶん1983年11月号だったと思います。

 初歩のラジオは、その前にも何冊か買っていました。初ラのほうが先でした。


●150MHzコンバータ 

 これに関しては、記憶があいまいで、はっきり覚えていない。失敗に終わったし、
 あまり良い印象がなかったからだろう。

 確か、JEC(ジャパン・エレクトロニクス・サークル)から買ったと思う。
 ようやく届いたものを見たら、ラジオの製作か何かの製作記事をコピーした説明書で、
 ああ、製作記事の部品セットだったんだ、と思ったような。

 なんでこれを作ろうと思ったかというと、当時、150MHzの受信手段が無かったからです。
 もしかしたら50MHzだったかもしれませんが、どっちだったか忘れた。

 このコンバータで150MHz帯に同調、受信したものを、FMラジオで聴取できるように
 変換してやるから、コンバータというわけです。
 出力は、FMラジオのロッドアンテナにからめてやりました。

 子供の頃は、電気的につながらないのに大丈夫なのかと、半信半疑でやっていました。
 リード線をむいてつながないとダメじゃないかとか・・・ミノムシクリップがあれば、それを
 つけた方が便利じゃないかと思っていました。

 実際、うまく動かない時には、リード線を直接つないだりして試したと思います。


●大きな古時計

 電子工作とはあまり関係ない話題だが、学校の音楽の時間に、「大きな古時計」を知った。

 当時、私は、その歌詞に違和感を感じました。
 もう動かない、だなんて、「修理すればいいじゃん」、って。
 死んだ人は生き返らないけど、機械は直そうと思えば直せるのだ。

 ちなみに、大人になってからこの歌が流行した時も、相変わらず違和感を感じた。

 ロマンも何もない、雰囲気ぶちこわし男ですね。
 いつも機械いじりで頭がいっぱいだから、こういう発想も仕方ない。勘弁してください。


■中学生の頃


●チカチカバッジ

 アメマ〜のバッジじゃないけど。
 ラジオの製作に載っていた、チカチカ・バッジを作ってみた。
 LED2個を交互に点滅する、トランジスタ2石のマルチバイブレータというやつだ。

 実際にはバッジの形にはできなくて、回路を動かすだけで精一杯だったのだが。
 一応、彫刻刀の入っていたプラケースに、LEDの穴をあけて組み込んだ。

 確か、後輩の家に遊びにいった時に、一緒に作ったと思う。

 いまでは何の苦労もなくできる簡単な回路だが、当時は試行錯誤で・・・。
 作ったけど動かない。片方しかLEDが光らない。点滅しない。

 トランジスタの極性違いとか、配線ミスを見つけては手直しして、・・・を繰り返し、
 ようやく交互に点滅するようになった時には、たぶん夜8時頃だったと思う。

 家からずいぶん離れた遠い所なのに、できるまであきらめられなかったのだ。


 その後、LED2個じゃなくて1個にはできないのかと思って改造してみたり、
 LEDをたくさんつないで、イルミネーションみたいにして点滅してみたり、色々
 遊んだと思う。


●電子ルーレット?

 確か、初歩のラジオに載っていた製作記事で、3つのLEDが順番に点灯し、
 止まるという電子ルーレット(というほどLEDは多くないが)を作ってみた。

 C-MOSのIC、4000番のシリーズだったと思うが、まだまだICの扱いに慣れていなくて、
 細かいのを必死になって半田付けした。

 一応、組みあがったが動かない。あれこれ調べて手直しして、動くようになったけど、
 なんか、記事に書いてある内容と動きが違っていた。

 電源ONで、3つのLEDが順番に点灯する。ボタンを押すと、そこで止まる。3つのうち、
 いずれかのLEDのみが点灯して止まる。ボタンを離すと、再び順番に点灯する。

 製作記事では、ボタンを押すと3つのLEDが順番に点灯して、徐々に遅くなり、
 最後に1つだけ点灯した状態で止まる・・・じゃなかったかなと。
 もう資料が残っていないし、記憶があいまいですけれど。


●MSXパソコン

 1985年の1月に初めてパソコンを購入したことから、興味の中心がパソコンに移ってしまいました。

 ちなみに、そのパソコンはソニーのMSX、HB-101でした。人々のヒットビット。
 持ち運び用のハンドルが付いていて、スタイリッシュでしたけどね。
 ラップトップでもないのに、何の役にたつのとか言わないでよ。

 確か、定価\46,800で、ベスト電器で購入した時は\40,300だったと記憶しています。
 ゲームソフト1本付きで\46,800だけど、ゲームいらね、と言ったらその値段になったっけ。

 買ったその日はうれしくて、自分の部屋の白黒テレビ(ゴミ処理場のおじさんからもらった)に
 つないで、飽きることなく色々いじくりまわしたものです(笑)。

 寝る時間になっても、なんか興奮して眠れなくて、
 つい起き上がり、電灯もつけずに月あかりの下でそのパソコンを眺めていました。

 さわったり、匂いをかいだり、・・・・・・変態ですね。

 まあ、新しい家電は、独特の匂いがしますよね。

 最初は自分でプログラムを作れないから、ベーマガ(マイコンBASICマガジン)に載っている
 プログラムをひたすら打ち込んでいました。そのうちに自分で作れるようになりました。

 私は最初、MSXというものを誤解していました。
 「MSXは互換性がある」という言葉を聞いて、最初の頃は、PC-6001やMZ-700などの
 プログラムも動かせるんだと思い込んだのです。

 じつは、そういう意味の互換性じゃないんですね。勘違いをしていました。

 MSXはMSX同士しか互換性がない。別々のメーカーがMSX規格に沿って作るから、
 メーカーが違っても互換性がある。ビデオデッキと同じようなものだ。

 当たり前といえば当たり前ですが、当時は、それじゃ互換性の意味ないじゃんと思いました。
 FM-7とかPC-6001とか、MZとか、いままで各社がバラバラに出してきた機種が増えただけ
 だろうと感じました。

 もしかしたらロードできるんじゃないかと思って、PC-6001のカセットテープをロードしようと
 試みたこともありました。

 PIOという雑誌があって、それにソノシート(レコード)が付属しており、プログラムが入って
 いたんですね。それをロードするのは一筋縄ではいかなくて、皆さんも苦労されていたようですね。
 ソノシートの下に何かシートをはさんでみたりとか、工夫が必要でした。エラーばっかりでね。


 まあとにかく、
 プログラムに夢中になっていたけれど、ハードウェア工作も並行的に取り組んでいました。

 たとえば、プリンタポートを出力ポートとして利用していました。トランジスタを通してリレーを
 駆動し、何かを制御したりできたのです。

 リレーの前に、LEDを点灯させる実験から始めたと思う。

 それと、ジョイスティックポートも利用しました。
 確か、初歩のラジオの記事を見て作ったもので、CdS(硫化カドミウムセル)という光センサー
 の信号をジョイスティックポートから取り込む回路でした。

 屋外にその光センサーを放り出しておいて、夕方、暗くなるのを一定時間おきに記録していました。
 画面に明るさのグラフが連続的に表示されるようにして・・・何の意味があるのかといわれても
 答えに困ってしまいますが。

 プリンタポートの話に戻りますが、共立電子でジャンクの小型プリンタ(レシート用か、昔のプリンタ
 電卓用のものと思われる)が売られていて、それをMSXにつないでみたことがあります。
 よく分からないままに苦戦しながら接続して、なんか動くんだけども、字はデタラメで・・・結局、
 うまく使いこなせなかったんじゃなかったかな。

 カセットインターフェースについて。
 これを利用すれば、近所の友人と線をつないで、プログラムやデータを送って遊べるのでは
 ないかという発想はあった。実行には至らなかったけど。




 当時は、「こんにちはマイコン2」しか持っていませんでした。



 だって、本屋にそれしか無かったもん。1巻を取り寄せようという発想も無かったんですね。


●2石短波ラジオ

 「ラジオの製作」の製作記事を見て、2石短波ラジオを作りました。

 中波のストレートラジオのコイルだけを短波用に替えたようなラジオでしたが、簡単な回路で短波が
 受信できることに興味を持ち、早速、作ってみたのです。

 コイルは、確か、単2電池に紙を巻き、そこにエナメル線を10回巻きだったと思います。
 バリコンは中波用でした。

 1段目のトランジスタのバイアスに、5.1MΩの抵抗が使われていて、これだけは手元になかった
 ので、通販で注文したことを覚えています。

 トランジスタは、確か2SC945だったけど・・・記事では・・・適当に代替品を使ったかもしれません。
 ただ最初は分からないから、記事の通りに作ったような気がします。
 簡単な回路が気に入ったので、続けて何台かを作ったのです。

 ケースは、お菓子の空き缶を利用しました。 ナッツボン という、砕いたナッツを飴でくるんだような
 キャンデーがありました。その丸い空き缶を利用しました。ふたは半透明のプラスチックで、開閉が
 自由にできるので使いやすかったです。小物入れなどに活用していました。

 これが現在のナッツボンです。袋入りで、中身も昔とはちょっと形が違うようだけど、味は同じかな。
 since 1968 って書いてある。わざわざ買ってきましたよ。何十年ぶりでしょうか。

 

 個包装の包み紙(紙じゃないけど)は、色がポリイミドテープに似ている。
 ひょっとして、中国の安いポリイミドテープは、これじゃないだろうな。まさか(笑)

 余談ながら、ポリイミドテープは、昔あんなに高かったのに、なんで今は安いのか。
 中国の業者から買うと安いのは、かなり前から知っていたが、本物だろうな?と半分疑っていました。
 セロハンテープを染めただけ、じゃないだろうなと。

 日本国内で買うと、数千円していましたからね。それが今では半田付けのマスキングテープとして
 使うぐらい安くなった。カードエッジに半田が付かないようにテープを貼るんだけど、昔はTESAの紙テープ
 を使っていました。

 缶を再利用する話に戻りますが、現在でもコーヒー豆とか、アーモンドなどの缶入りのやつがあるけど、
 あれは中身が直接入っているから、塩や油で汚れています。洗わないといけないんだけど、ナッツボンは
 個包装ですから、缶はきれいでした。

 このラジオに必要かどうかは別として、空き缶はシールドにもなるから便利よな。
 真空管(ST管)のシールドケースが無い時、小さい缶飲料(コーラか、CCレモン)を買ってきて
 その空き缶を利用したこともあります。

 いま改めて、その ナッツボン の缶を探してみたら、もう無いんですね。袋入りになってるし、
 それ自体も近所のスーパーではほとんど見かけない。
 当時、将来欲しくなるとは思わないから、缶を保存しておくわけないよな。探せば実家にあるかもしれないが。

 この際、ここに書いておきますが、自分の好きなものがスーパーで売ってないので不満なんですよ。

 以前は売っていたけど、見かけなくなったものリスト:

  ・金ちゃんヌードル (徳島製粉)
  ・本場ラーメン (日の出製粉)
  ・ピーナツバター (各社)
  ・えーっと、思い出せない。これくらいにしておきます。
   ラーメンばっかりじゃん。>自分

 金ちゃんヌードルも、本場ラーメンも、わざわざ通販で(箱買いで)取り寄せています。

 とくに本場ラーメンは、生まれて初めて食べたインスタントラーメンだから、思い入れがある。
 初めて食べたときのあの感動!! 匂いを覚えているのに銘柄を忘れてしまったけど、
 大人になってから、これだと分かったんだよな。こんなの、自分以外どうでもいい話だけど。

 私はメーカーの手先じゃないけど、宣伝したいと思います。麺が違うんですよ!ウマイんですよ。
 個人差や好みもあるでしょうけど、ご存知ない方は、一度食べてみませんか。通販あります。
 勝手に宣伝: 日の出製粉 

 こちらもよろしく: 徳島製粉 

 ぜーんぜん電子工作の話じゃないし・・・・・・・・・・・・・・・。


 当時の記事ではないが、その後の号の質問コーナーに載っていました。
 1984年2月号の2石短波ラジオ、と書いてありますね。

 あえて、ボケた状態で・・・


●通販

 中学〜高校にかけて、主にサトー電気へ注文していました。
 科学教材社は、太陽電池とユニバーサル基板を注文した程度だと思います。
 共立電子産業は面白いキットやジャンクがあり、時々、注文していました。

 ユニバーサル基板は、科学教材社から4mmピッチのものを買っていました。
 それを愛用していたけど、のちに2.54mmピッチに乗り換えるときには、
 こんな細かいのは使いにくいよと、最初はそう感じたものです。


●BFOキット

 これはラグ板に組むやつだったと思う。共立電子産業から買った。

 どういうものかというと、SSBのモガモガを普通に聞けるようにするための
 回路である。 BFOは一種の発振回路で、うなり発振器といいます。
 回路は簡単で、トランジスタ、コイル、抵抗、コンデンサ、ぐらいだったと思う。

 短波ラジオ(当時は短波付きラジカセで聴いていた)を7MHz近辺に合わせると、
 モガモガした声でアマチュア無線の交信を聞くことができた。
 これはSSBだから、普通のラジオではそのように聞こえるのである。
 いくらモガモガでも、ずっと聞いていると耳が慣れて、話している内容が分かる時があった。
 車が故障して、仲間に助けてもらっている時の交信を聞いたことが記憶に残っています。

 さすがに、モガモガを聴くのは集中力が要求されるので(笑)、クリアに聴けるようにBFOを用います。
 BCLラジオにはBFOが付いているらしいけど、うちはゴミ処理場のおじさんからもらったラジカセ
 しか無かった。

 そのSSBがクリアに聞けるようになる? ラジオの製作に載っていた共立電子産業の広告を
 見て、注文したわけです。

 簡単なキットだったから、すぐできたと思います。電池は確か、006Pの9V電池だった。
 出力のリード線を、ラジカセのロッドアンテナにからめて、信号を入れてやりました。

 結果は、どうだったかなあ・・・記憶では、あまり芳しくなかったように思います。
 何度か、うまく聞こえた時はちょっと感動しました。

 ただ基本的に、面倒くさいなと感じていました。調整がいまいちだったのかな。
 当時は、回路の仕組みもわからずにいじっていたし・・・。
 なぜクリアに聞けるようになるのかもわかっていなかったのですよ。


●BCL

 短波付きのラジカセを手に入れたことで、短波を聴けるようになった。
 それまではAMとFM放送しか聴いたことがなかったので、好奇心いっぱいで
 ダイヤルを回していました。

 AMで受信できる海外の日本語放送は限られていました。短波で、さらに多くの
 海外放送を聴くことができるようになりました。

 また、短波は不思議な音が聞こえるので、とくに興味をそそられました。

 ・JJY (10分ごとに音声で時刻をアナウンス。あとは1秒ごとの電子音2種類)

 ・UVB-76 (ブー、ブー、ブー、・・・)

 ・パタパタパタパタパタ・・・(Woodpecker? OTHレーダー?)

 ・K信号 (-・− の繰り返し)

 ・ピロピロピロ・・・(たぶんRTTY)


 JJYは標準電波局で、海外にも同様の標準電波局があり、たまに混信して
 中国語らしきものが聞こえていたことがあります。

 短波JJYは既に廃止されています。

 K信号の発信元はロシアだろうと、当時の「ラジオの製作」に書いてありました。



●アンプの違い

 ゲルマラジオの出力を、イヤホンでなくスピーカで聞きたい。
 それにはアンプが必要だが、最初はお手軽に、ラジカセを利用していた。
 マイク入力端子に入れてやって、スピーカから増幅した音声を出した。

 しかし、これではラジカセで放送を受信しているような見た目となり、
 どうも具合がよくない。

 やはり独立したアンプが必要と考えた。

 当時は何も知らなかったから、オペアンプとオーディオアンプの区別も
 わからなかった。ただ、回路図を見て、記号が同じ(三角)だから、同じものだろう
 という認識しかなかった。

 当時、知られていたオーディオアンプは、LM358やμPC575C2だった。

 初めて使ったオペアンプは4558だったと思う。

 記号が同じだからそのまま代替できるだろうと考えて、オーディオアンプの回路を
 見ながら、4558の入力、出力、電源を合わせて接続していった。

 結果的にどうだったのか忘れてしまったが、ちょっと鳴ったような気がする。
 すぐに過熱して壊れてしまい、それっきりだったと思う。

 その後、ジャンク基板からμPC575C2を見つけて、それをラジオの製作の回路図を
 見ながら配線してアンプを組み立てたら、うまく動作した。



●ポケコン

 友人が持っていたPB-100(カシオ)と、その後、さらにPB-80をその友人が購入したので
 それらをいじって遊んでいました。たまに借りて、家に持ち帰っていじくったりして、楽しかった。

 パソコンは持っていたけど、ポケコンは持ち運んで手軽に使えるという点で、また別の
 面白さがあったと思います。
 画面なんか小さくて、文字が12文字ぐらいしか出せなかったと思いますけどね。

 基本的にBASICでプログラムしたけど、RAMが少ないからすぐに使い切ってしまって・・・
 あちこち見直しては削ったり修正したりして、捻出したもんですよ。本当に今では信じられない
 かもしれないけど、メモリは貴重だったのです。

 それで友人が、増設RAMを島原の某家電量販店に取り寄せを頼んだが、いくら待っても入荷
 せず。結局、入手できませんでした。おかしいですよね。生産中止ではなかった。当時、現役
 だったはずですけどね。

 そういえばその店は、私がはじめてMSXを買った店でもあるし、プリンタも買ったし、ワープロも、
 インクリボンなどの消耗品も買ったりして、何かとお世話になっていました。去年だったか、
 とうとう閉店してしまいました。

 カシオに、PB-100のポート(プリンタ等をつなぐ)の内容を教えてくださいと手紙を書いたことが
 あります。そうしたらご丁寧に返信を頂いて、しかし、残念ながら非公開です、とのこと。
 こりゃあ、自分で調べるしかないな、とテスターで信号を調べようと躍起になっていました。
 結局、それでは限界があって、自分の知識もなかったので、できなかったんですけどね。

 高校時代の話に書きますが、PC-1417Gはポートの信号が説明書に公開されていたので
 その点は有り難かったと思います。


 最近見つけたサイトをご紹介します。こちらのサイトにポケコンなど詳しく載っていますよ。
 久しぶりにPB-80などを見て感動しました。(こちら

 あと、当時の数学の先生が使っていたポケコンもカシオでした。
 確かPB-700だったと思いますが、もう忘れました。それをインタフェイスボックスFA-10に
 取り付けたものが、数学の準備室?に置いてありました。
 最初に見たとき、右下にFA-10と書いてあるのを見て、それがポケコン本体の型番だと勘違い
 していました。

 先生はプロッタプリンタで、数学のテストのベスト10などを打ち出していました。上位10人の
 名前と得点のリストです。私はワーストのリストに入っていました(笑)。
 教室に貼り出してあったそれを国語の先生が見て、こういうのはいけないなあ・・・と、
 嘆いていました。
 ただ、数学の先生としては、ポケコンをいじるのが楽しくて、あれこれやってみたかった
 だけなんだろうと思います。
 あと、授業の時に持ってきて、3つの整数をランダムに打ち出した紙を配ったことも
 ありました。最大公約数だっけ、忘れたけれど、その3つの数字から求めなさい、という課題
 だったと思います。

 それからウルトラクイズにも私は当時夢中になっていたのですが、成田でジャンケンをしますよね、
 その挑戦者の一人が、FX-702Pというポケコン(これもカシオ)を持って来ていて、それで
 ジャンケンをして勝ち抜けたのを覚えています。

 そのあと、セガのSC-3000Hのパソコンジャンケンも出てきました。人数が合わなかったんだっけ。
 一人なので、パソコンと対戦したんじゃなかったかと思います。そのへんは忘れました。

 あとは妄想の世界なんですが、あのパソコン、番組の収録が終わったらポイなのかなあ、俺に
 くれんかなあ、と考えたりしました。


■高校生の頃


●電子工学科に入学 

 工業高校の電子工学科に入学しました。
 受かるかどうかギリギリだったけど、なんとか(本当に)ギリギリで・・・。

 当時の教科書(いまも手元に置いている) 電気基礎、電子技術

 

 電気基礎は東京電機大学出版局、電子技術はコロナ社でした。

 電子工学科、つまり弱電だったので、送電や配電など強電の世界は少ししか勉強していません。
 3年生の時に「電気技術」で少し習ったぐらいです。
 電気科ではないので、電気関係の資格試験の学科免除がないのは、不利といえば不利でした。

 現在、島原工業高校の電子工学科はありません。閉科しました。

 好きな勉強ができると思ったけれど、数学が苦手な自分にとっては、厳しいところでした。
 電気は、とにかく数式だらけ!

 学校の勉強についていけなくなり、なんで好きな科目なのに赤点とるのかって、親から怒られ
 たものです。


●ポケコン PC-1417G シャープ

 入学時に教材として全員購入したもの。
 かつては計算尺、そして関数電卓、プログラム電卓、と変わってきて、
 我々の世代はPC-1417Gとなりました。

 (ひとつ上の先輩はカシオのFXなんとかだったと思います。)

 これをいじくり回すことに夢中になりまして、授業中も勝手にプログラムを作って
 遊んでいました。1年生の1学期はほとんど授業を聞かずに、ポケコンばかり
 いじくっていたと思います。
 ある日、先生に注意されてから、正気に戻りました。

 以前、別の記事に書いたので、ここでは細かく書きませんが、
 ブザーを追加したり、RAMを増設したりして遊びました。

 外付けのハードウェアも色々作りました。
 これも以前の記事に書いたので、あまり詳しく書きません。

 最初に、信号を確認することも兼ねて7セグを点灯するやつを作ったけど、
 やはり0〜7しか出せないから、微妙でしたね。8と9は出せなかったのです。
 だって3ビットでしょう・・・。
 当時は、シフトレジスタを使う発想は無かったんでしょうね。
 クロックとデータを組み合わせば、何ビットでも制御できますけどね。その時は
 思いつかなかった。

 その次に、電子オルガン(ICを使って自作したもの)と、アナログスイッチ(マルチ
 プレクサ、確か4051)を組み合わせ、これをポケコンに接続することで、演奏できる
 ようにしました。
 ただ、ポケコンの出力は3ビットしかないので、無音、ドレミファソラシ、の8通りしか
 選択できません。その範囲におさまる曲を選ぶのが厄介でした。

 最後の1音だけ高い”ド”だった曲があり、それは出しようがないから、仕方なく
 ひとつ下の”シ”で代用したけど、やはり違和感がありました。当たり前田のクラッカー。

 のちに、そんなハードウェア無しでも音を出せるようになりました。それには
 ブザー内蔵が前提でしたけど、古いゲーム&ウォッチからはずしてきて、
 みんなのポケコンを改造してあげました。
 たしかPC-1245か何か、忘れたけれど、その機種のサウンドプログラムが使えた
 んですね。

 あと、5×7ドットの文字ディスプレイ(これはキャラクタ液晶と同様)に、グラフィックを
 いかにして表示するか、にも夢中になりました。
 ドットが、ブロック崩しみたいに5×7の枠の中を飛び回ったり跳ね返ったりするやつ。
 あるいは、正弦波のような波形が5×7の何文字分かを使って、うねうね動くやつ。
 何文字か組み合わせて、ひらがなで自分の名前を表示したりとか。
 本当に暇人だったとしか言いようがありません。

 RAM増設は、生まれて初めてSOPパッケージのSRAMを半田付けしたのです。
 サトー電気さんに注文して届いた、貴重なその1個を慎重に空きパターンへ載せました。
 半田ジャンパーの設定とか、何も参考資料がなかったと思うけど、よくできたなと
 いまさらながら不思議に思います。たぶんひとつずつショートしたりオープンしたりしながら
 試したんでしょう。それしかやりようがないですから。


●MZ-2000 シャープ

 大阪の親類の会社から、もう使わないというのでもらったパソコンですが、
 2014年現在も大切に持っていて、正常に動作します。(カセットのみ故障)

 BASICはシャープのBASICとハドソンのHu-BASIC、2種類付属していました。
 一緒に送ってもらったフロッピーをかたっぱしから読み込ませてみたけれど
 読めないのがあって、たぶんタバコまみれだからいかんのかなあ?と思い込み、
 キズがあるものは捨てて、そうでないものはフォーマットして再利用しました。
 あとで、フォーマットの違いで読めなかったと理解してから、もったいなかったと後悔しました。
 CP/Mもあったみたいです。それも消してしまった分に含まれていました。あーあ。


●ビデオキャプチャーの製作 

 古本屋で見つけたPC-8801の本に、ビデオキャプチャーの製作記事が載っていました。
 ビデオ信号を入力し、静止画(白黒)として取り込むものです。
 回路とプログラムを検討したら、MZ-2000に移植して動かせそうだったので、実際に
 作りました。

 一番高価だった部品は、高速コンパレータのμPA760だったかな。それとLF356で、
 いずれもメタルキャンタイプでした。

 プログラムの移植は、I/Oアドレスを空いているところに変更するぐらいでしたが、
 ハード的には、確か、-5Vの電源が必要になったけれど、拡張スロットには
 それが来ていなかったと思います。
 最初は、いい加減なもので、ACアダプタの+を回路GNDへ、-を-5Vへ接続して使って
 いました。いちいちコンセントにささないといけないので邪魔でした。
 もう少しスマートにならないものかと思い、DC/DCコンバータ回路を組み込みました。

 これでアニメ(※)の画像を取り込み、コレクションして喜んでいました。
 でも白黒(正確には、グリーンモニタなので緑黒)だから、不満はあったけど、
 それでも結構楽しかったと思います。

 

 上の写真は、取り込んだ画像をプリンタ(MZ-1P07)でハードコピー(紙にプリントアウト)したもの。

 左は、ズバリそうでしょう、の丸尾くん。(ちびまる子ちゃん)
 右はクリィミーマミで、たぶん最終回じゃないのかなあ。ポジとネガ。ピノピノ。まだ覚えてるし(笑)

 さらに、取り込んだ画像の濃淡に従って文字に変換し、プリンタで出力するプログラムも作りました。
 文字を重ね打ちして濃度を調整したり、あるいは、画数の少ない文字、多い文字を使い分けて
 濃度を調整しました。
 さらに、プリンタ用紙何枚かに分割して印刷し、巨大なポスターを作って遊びました。
 遠くから見ると、ちゃんと写真のように見えました。

 ※クリィミーマミとか。いまは何とも思いませんが、当時は萌え萌えでした。その目的のために
  頑張って製作しましたね。教科書やニュースでクリミア半島というのが出てくると、なぜか
  気になったもんです(笑)


●Z80ワンボードマイコン 自作

 これは以前、記事を書いたので、ここでは簡単にご紹介します。

 このワンボードマイコンは、高校2年の終わり頃に製作したものです。

 

 (奥に写っているのはMZ-2000です。DARSは関係なし)

 まだまだ半田付けもヘッタクソで、コテ先の太い半田ごてしかなくて、しかもメッキ無しのコテ先
 でしたよ。銅がむきだしだから、すぐに黒くなって半田をはじくのです。それをヤスリで磨きながら、
 半田付けをしました。

 コテ先が太いから、隣のビニール線と触れやすくて、被覆を焼いたりしました。そうならない
 ように注意しながら作業しました。

 ワイヤストリッパーの存在も知らなくて、ひたすら、切れないニッパーで皮むきをしました。
 家にあったやつで、ナットをつかんだり針金を切ったり、まるで万能工具みたいな、めちゃくちゃな
 扱いをしていたから、刃が鈍っていたものです。何も知らなかったから、それを疑問に思わず、
 こんなもんだろうと思いながら使っていたんですね。

 このマイコンの組み立ての前か後か忘れたけれど、初めてホームセンターでニッパーを買ったら、
 やたらに切れ味が良いので(それが当たり前なんだけど)、感動してしまいました。
 ワイヤストリッパーを買ったのは、だいぶ後だったと思います。のちにラッピング線を使い始めた頃から
 でした。

 完成にいたるまでの道のりは平坦ではなくて、じつは、一度失敗して組みなおしたものです。
 お金がないから、少しずつ作っていこうとしました。最初にCPUボードだけ作って、とりあえず
 通電してみたけど、74LS245が焼けてしまったりしました。何が悪いのかわからなくて
 途方にくれたものです。

 とにかく、自分にとっては、かなりハードルの高いチャレンジでした。

 失敗のあと、いろいろ考えたと思いますが、
 成功するためには、まず「できる」と信じること、各ブロックごとに分割して少しずつ確実に作ること、
 配線を整理すること、配線が終わるたびに必ず色鉛筆で塗りつぶすこと、といったルールを決め、
 最後まで守りました。

 最初は基板を節約しようと基板3枚分で検討していたけれど、あまり詰め込んで配線が混雑したら
 失敗すると考え直し、余裕のある4枚構成としたことも成功につながったと思います。
 実際、余裕があったことで、あとから回路を追加することが容易にできました。


 箱には、1989年3月31日完成と書いてあります。

 

 この箱は、2代目です。フロッピーディスクの保管ケースのダンボールを、裏返して利用しました。
 最初は「ひよ子」(お菓子)の箱でした。ちょっとフタが浮くので、間もなく取り替えたと記憶している。

 現在(2014年5月)も正常に動作します。数年ぶりに引っ張り出してきました。
 4桁の数字はアドレス、2桁の数字はデータです。31はLD SP,****ですね。

 

 でも、よく見たら電解コンデンサが液漏れを起こしていました。それは過去にもあったので(別の場所)
 その時にも交換したけれど、さすがに年月が経過していますからね。もう25年ですよ。

 もう25年たったなんて信じられないけど、不思議なことに、手が操作を覚えていました。
 手が記憶してるわけないけど、それだけ使い込んで、身にしみこんで覚えるぐらい使った、
 ということね。

 ちょっと変わってるんですけど、I/Oがメモリーマップドでして、6200hからユーザ用8255が
 割り当ててあるんです。6203hにコントロールコマンドを80hと入れて、6200hに書き込めば
 それはAポートへの出力ですから、右の写真のように、モニタLEDが点灯するわけです。
 この時はFFhを出力しましたから、全点灯ですね。

 製作記事には、メモリーマップドとI/Oマップドが選べる、としてそれぞれの(異なる部分の)回路図が
 載っていたけど、モニタROMはメモリーマップド前提だから、回路だけ修正しても動かないでしょう。
 修正はモニタROMにパッチが必要とか書いてなかった。

 これを製作した時に参照した製作記事は、「ラジオの製作」(電波新聞社)の「Z80Aを使った
 マイクロ・コンピュータの製作」(坂本耕二)でした。
 第1回目は1984年11月号、それから翌年11月号までの連載でした。

 その記事では、各ブロックごとにカードエッジ基板1枚ずつに組み立て、スロットに差し込んで
 システムを組み上げるというものでした。
 しかし、それでは予算が余計にかかってしまうので、自分にとっては現実的では
 ありませんでした。

 そうだ、全てを組み立てる必要はない。ビデオ出力もフルキーボードもいらない。
 サウンドもいらない。最低限必要な機能だけをワンボードに組み立てようと決めました。

 手に入る中で一番安かったユニバーサル基板を4枚、つなぎ合わせて使うことにしました。
 なんで大きい基板1枚にしないのと先生から聞かれたけれど、お金がなくて少しずつしか
 部品を集めることができなかったからです。

 少しずつ時間をかけて作るつもりだったが、妙に勢いがついてしまったのか、春休みの3日間で
 組み立て配線を終えて、完成しました。

 その後、学校の電子科の先生に見て頂いたりして、同じものをもう1台作ってくれと頼まれました。
 先生から袋いっぱいの部品を頂いて、本当に夢のようでしたね。今度は、大きい1枚の基板に
 自由に作ることができました。すでに定年退職されましたが、おそらく保存しておられると思います。


●16ビットCPUの自作に挑戦、挫折

 エネルギーあふれる若者だったので?、Z80を使うだけでは物足りず、ついにCPUを作ろうと企てる
 ようになりました。高校3年生の頃だったと思います。

 しかし、CPUの作り方など、ほとんど文献がありませんでした。自分の調べられる範囲では、1〜2冊
 程度だったと思います。

 そうやって、あれこれ調べていくうちに、昔のコンピュータやその歴史に興味を持ちました。
 日本で初めてのリレー式から、パラメトロン、トランジスタまで、それに関連した文献を読み漁りました。

 回路図などはほとんど載っていなかったので、直接、参考にはなりませんでしたが、
 先人たちの苦労などを知ることができました。

 それで最初はトランジスタで作ろうと、いま思えば無茶なことを(当時のレベルで)考えはじめました。
 実際、DTL回路でNANDを作ってみたりしたんですけど、これでCPUを作ろうとしたら、どれだけの
 部品と配線になるのかと、考えたところで挫折しました。

 今だったら、プリント基板を設計して、チップトランジスタを載せて作ってしまえるでしょうけど、
 当時の実力では、とても複雑なものは作れませんでした。

 





●セガ SC-3000H のワイヤレス化

 「ラジオの製作」の売買コーナーで格安にて入手したセガSC-3000Hを、そのままでは飽き足らず、
 ワイヤレス化しようと考えました。

 格安で、というのは、以前にも書きましたが、売るものなのになぜか「買う」コーナーに載っていて
 SC-3000Hを4.6Kで、という文章から、どう見ても「売る」だろうと思いました。それなら、まだ売れてない
 可能性があると思って、問い合わせたら、思ったとおりでした。ヤッター!安く手に入ったと大喜び。

 手元には、単3ニッカド4本とその充電器、そしてロッドアンテナと、自作TVブースタの残骸がありました。
 さらに、秋月電子から買ったビデオカメラのビューファインダーもありました。

 当時の秋月電子の広告より。たぶんコレでした。

 二つ買っておけばよかったと後悔しましたね・・・。両眼でステレオ表示?が楽しめたと思います。


●大阪日本橋

 秋葉原より先に、大阪日本橋へ行く機会がありました。

 主な目的は、MZ-2000用のプリンタが壊れたので、それを買いに行く事でした。
 いくつか店を回ってみたら、なんと同じMZ-1P07があって、中古だけどきれいだったし、
 値段も手ごろでよかったです。

 残念ながら、親類のおじさんに案内してもらったので、パーツ屋さんなどを細かく
 見て回ることはできませんでした。
 それよりも、こんな場所は生まれて初めてで、共立電子の前に立っただけで胸がいっぱいになりました。

 純粋な時代でしたね〜(笑)


●無線部

 高校では無線部に入りました。

 私が1年生の時には、先輩方もそれなりにおられたのですが、
 多かったのは3年生で、2年生は3名だけでした。
 翌年、その3年生が卒業した後は、先輩は3名だけとなりました。

 私の同級生の部員は、5〜6名だったと思います。

 我々が3年生になった時、新しい部員は入ってきませんでした。
 4月に新入部員を迎えて、説明会をする日のこと。各部ごとに教室に分かれて、
 新しい部員の到着を待っていました。
 しかし、我々の所には、いくら待っても新人は来なくて、結局、去年の顔ぶれが
 そのままという、寂しい結果となりました。

 既存の部員の中には、無線に興味があるとは限らない者もいました。つまり、
 「帰宅部」と考えている者もいました。実際、そうだったんですけどね。

 無線部としての具体的な活動はほとんど無く、なぜか放送部の仕事をしていました。
 体育館で集会がある時のマイクや配線の準備、調整とか。体育祭のスピーカー
 の取り付けやアンプ、マイクの設置などです。

 私が1年生の時に、3年生の先輩から「お前はBCLをやっているか」と聞かれました。
 はい、北京放送などを聴いていますと答えたら、いきなり、「生意気だ」と一喝。

 「いきなり海外放送を聴くとは生意気だ。国内放送で鍛えてから、次に海外放送の
 BCLをするのがスジというものだ」、という説教を延々と聴かされました。

 そんなこと知るわけないです。「ラジオの製作」などの雑誌から知識を得ていましたが、
 自分が興味をもったのは海外放送で、国内の放送は普段聞いているから、あまり
 興味がなかったのです。オールナイトニッポンとか聞いてましたよね。

 「とにかく、つべこべ言わずに、国内放送を聴いて受信報告書を書いて来い。そして
 俺に見せろ」といわれたのです。

 結局、書いてこなかったんですけど、この先輩からは色々厳しく言われて、泣きそうに
 なったこともあります。とにかく、何か言うと、「生意気だ」と言われました。だから、何も
 言えませんでした。

 それで我々が3年生になった時は、天下をとったような気分でしたね。
 後輩はまったくいなかったけど。


 ある日、顧問の先生が、「おまいら放課後に来いや」と我々を呼び出しました。
 校内放送で、無線部の全部員に召集がかかったのです。

 実習棟の一室に我々を集めて、顧問のお説教が始まりました。

 「お前らは何部だ、言ってみろ」、

 「活動してないじゃないか」、

 「とにかく、電波を出せ」と。

 さらに、

 「この前の高総体の取材の時、T君ひとりを現場で見かけたが、ボーッと立ったまま
 何もしていなかったぞ。どうなってんだ!」

 (取材: ビデオカメラを持っていって、試合を撮影することになっていたのです)

 そして、こう言いました。
 「今度、アマ無線の講習会がある。まだ免許を持っていない者は、
 この機会に講習会を受けなさい。申し込みたい者は手を上げなさい。」

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・誰も手を上げません。

 (顧問の血圧上昇▲▲▲▲▲

 「誰も受けないとはどういうことだ!
お前らは、やる気があるのか!!」
 

 顧問はキレました。

 誰も講習会を受けようとしないので、さらに、火に油を注いでしまいました。

 さらに説教は、延々と続きました。みんな、下を向いて、黙って聞くだけ。


 さて、その後、工業展(文化祭)に無線部もブースを出し、交信の実演をすることになりました。

 誰も免許を持っていないし、そもそも、学校のクラブ局の免許自体が、有効なのか無効なのかも
 わかりません。

 法律で、局免は運用場所に掲示することになっていたと思いますが、ありませんでした。
 どこにあるのかも分かりませんでした。

 それでも、決まったんだから実演しろと言われたので、仕方ない、やればいいんだろう、という雰囲気で
 我々は準備を進めました。

 無線機を移動し、ロングワイヤーアンテナを適当に張り、椅子などを配置しました。

 まあ、無免許で電波を送信しました。(これを、アンカバーという)
 顧問が、電波出せって言うんだもん。(子供の言い訳だ)

 当時、私は誤解していました。学校のクラブ局に入れば、免許(従事者免許)
 を持っていなくても電波を出せる、と思っていました。

 いまのように、ネットとか便利なものが無いから、疑問があっても簡単に調べられない
 のです。詳しい人に聞くか、図書室に行って本を探すぐらいしか手段がなくて、
 必ずしも、必要な答えが得られるとは限らなかったのです。言い訳にしか聞こえない
 でしょうけど、それは現実でした。

 知っている人にとっては常識でも、知らない人にとっては、その事実の存在そのものが
 分からなかったのです。
 分かりきっているから、あえて書かないのか。どこに書いてあるのか。知らなかったら罪
 なのか。知らなかったで済まないのか。現実は、やはり知らなかったでは済まないでしょう。

 部員のうち、何人かが実際に交信を行いました。(みんな無免許で)

 QSLカードをJARL経由で交換する約束をしてしまった者もいて、話の流れでそうなった
 んだろうけど、何も知らないのに、できない約束をしちゃって、おいおい、どうするんだよと
 横で聞きながら、マズイなと。

 私自身も準備の段階で、ハンディ機を使い、仲間と適当に交信していました。コールサイン
 なんか無いので、友達同士のニックネームとかで・・・***ちゃんとか。
 なーんにも知らなかったので、チャンネルの選び方も、分かりやすいので00にしました。
 それは145.00、つまりメインチャンネルでした。(その意味を知りませんでした)

 メインチャンネルを使って、「おーい、***ちゃーん、きこえるー??」と遊んでいました。
 おもちゃのトランシーバーと同じ感覚でした。さすが本物のトランシーバーだ、よく飛ぶなあと。
 建物の上にのぼったり降りたり、遠くに行ったりしながら、交信して遊びました。

 すると突然、誰かが怒鳴り込んできました。 「こら!いたずらするな!

 ・・・・・・えっ、誰???

 話を聞くと、監視員とのこと。同じ島原市内におられる方でした。
 ひどく怒られてしまいました。

 監視員という存在も初めて知りました。電波監理局しか知りませんでした。
 たぶんJARLの関係だと思います。
 (正式名称がわからない。監査指導員かな?)

 しかも、 「これから学校までのぼってくるから、待っていなさい」とのこと。

 ・・・・・・ゲーッ、ウソだろーーーヤバスギーーー。青ざめました。
 とりあえず、名札を隠しました。

 実際、学校まで来られて、「前田」はどこにいるか?と聞かれたんですが、
 私は、彼ならトイレに行ったようですとトボケまして、代わりにご用件を伺います、と言ったか
 どうか忘れたけれど、とにかく知らないふりをしました。

 ただ、この一件があってからは、以後、電波を出すことは止めました。

 無免許で電波を出してはいけません。
 クラブ局に入っていても、従事者免許なしで
電波を出してはいけません。

 結局、免許をとったのは高校卒業後でした。
 でも42才の今日まで、開局をしたことはあるけれど、交信をしたことはありません。

 そのほかの無線部の活動としては、うーん、
 RTTYの受信をしたぐらいかな。テレリーダと白黒テレビが置いてあって、それを無線機につなぎ
 ピロピロピロ・・・と鳴っている通信を受信するわけです。そうすると文字に変換されて、テレビに
 気象情報だったかな、表示される仕組みでした。すごく遅かったけどね。でも面白かった。

 ちょうど「ベルリンの壁」の崩壊の時、部室の白黒テレビでそのニュースを見たことを覚えています。
 歴史的な瞬間だったんですね。


●通販

 サトー電気、藤商電子、秋月電子

 秋月電子は送料\600で、それが最初の頃は気に食わなかったが、
 売ってるものが面白いので、徐々に興味をひかれていきました。







●3端子レギュレータ

 マイコンなどデジタル回路の実験には、5Vの電源が必要となる。

 当時、ACアダプタはほぼ全てトランス式で、中身はトランスとダイオードブリッジ、
 電解コンデンサ程度の簡単なものであった。もちろん出力はリップルがのっており、
 安定化電源ではないので、電圧も正確ではなかった。それで使いにくいシロモノであった。

 とくに音声を扱う回路に、ACアダプタを使うと、ブーンというハムがのって、使えなかった。

 そこで、はじめて3端子レギュレータというものを使ってみた。

 筐体は、昔のコードレスホン親機のジャンクを活用した。アルミ筐体にトランスがのっていて、
 ダイオードブリッジまではそのまま利用できた。そのあとに電解コンデンサ、3端子レギュレータ
 を取り付け、配線した。3端子レギュレータは、アルミ筐体にビス止めして放熱をよくした。

 これで安定した直流電源をはじめて手に入れた。不細工だったけど、それは自分にとって
 とても重要な存在となった。




■専門学校生の頃

●学校の勉強

 ビジネス系の学校でして、プログラム言語はCOBOLだし、
 ハードウェアは机上の勉強だけでした。

 じつに退屈なので、授業中に内職をすることもありました。
 内職というのは、個人的なプロジェクトに関する作業ですけど。




●電子回路を教える

 専門学校に入学してから、同じ下宿だったF君と仲良くなりました。彼はゲームを作って
 ベーマガなどに投稿していましたが、電子回路にも興味があるとのこと。工具も一通り
 持っていました。電子回路を教えてくれと頼まれました。

 ところが実際に教えてみると、分かるように説明するのは難しいと気づきました。
 また、いかに自分が分かっていないかがわかった(笑)
 自分が勉強しないといけない。


●マイコン作り

 懲りずにマイコン2号機、3号機と作っていきました。

 デンキのカホで部品を買い集めて作ろうとしたけれど、レジでびっくり。予算オーバー。
 実際、高い店だったと思うけど、店頭で部品が買えるのはカホぐらいでしたから仕方ない。

 当時、設計したマイコン(たぶん2号機)の回路図が出てきました。

 

 回路図を描くための方眼紙にもこだわっていて、何ミリ目のやつがいいか・・・
 何種類か買ってきて、試していたと思います。
 そんな細かいことを気にしてもしょうがないと思うんですがね。今はね。

 下のこれは8255、右のはPSGだと思います。AY-3-8910ね。

 

 確か、ロータリ式のDIPSWでアドレスとデータを指定し、1バイトずつマシン語を書き込む、
 地獄の苦しみのようなマシンだったと思います。

 ロータリ式のDIPSW(0〜9およびA〜Fを回して選ぶ)だったらコンパクトにまとまるだろうと
 いう狙いは良かったが、ものすごく高かったし、何度も回すうちに消耗してスカスカに
 なる心配はありました。

 

 上の回路図、ドットマトリクスのLEDディスプレイですね。
 確か、テトリス専用を意識して作ったと思います。横に10ドットですから。



 LEDディスプレイの表示は、割り込みを定期的に入れることでダイナミック点灯させようと
 目論んだが、それで処理が間に合うのかどうかの判断が当時はできなかった。

 のちに、この2号機の失敗をバネにして、ハードウェアで表示を制御する方式に変えて
 成功したのです。(それがSPYBOXという自作マイコン3号機)


●バケツ式ゲルマラジオ

 バケツじゃなくてゴミ箱だけど、もともとの製作記事はバケツだったわけです。
 このためにわざわざバケツを買うのもなあと思い、手近なところにあった
 ゴミ箱を利用することにしました。円筒形のプラスチックだったからちょうど良い。

 その底の部分に穴をあけて、ポリバリコンやイヤホンジャックをつけました。
 この状態でゴミを入れると、汚れたりするので、必ずゴミ袋を入れて使うことに
 しました。

 当時の下宿(3階建て)の屋上にのぼり、5mほどのワイヤーアンテナを張ったら、
 NHKぐらいでしたけど、よく受信できました。出力をテスターではかったら、
 最高で1Vぐらいまで出たので、これで充電できないかと考えたりして・・・。

 電圧はそれなりに出るけど、電流は大したことないでしょう。

 昔の「ラジオの製作」の質問コーナーなどでは、それを電源として、1石のラジオを
 鳴らすという奇妙なゲルマラジオのアイデアが何度も出ました。電圧が低いので、
 ゲルマニウムトランジスタじゃないと難しかったようです。






●徹夜でポケットラジオを作った

 なんだかすごく気分が高まったのでしょう。徹夜でポケットラジオを作った事があります。
 それも2回ありました。

 時間を忘れて夢中になれるって素晴らしいよね。

 ひとつは、LA1050を使った短波ラジオで、小さいのにスピーカが鳴りました。

 LA1050は中波帯用ですけど、感度は確かに悪いけどコイルを換えたら短波も鳴るのです。
 単純にスライドスイッチで中波用と短波用のコイルを切り替えるようにして、2バンドとしました。
 スピーカは、普通のやつだとケースにおさまらないから、薄型の小さいものを使いました。
 圧電スピーカではありませんよ。

 

 寸法は、70×45×20mmぐらいです。

 いま、写真撮影の為に久しぶりに引っ張り出してきました。
 スピーカは、いま付いているのは写真のものですが、もともとは金属製の薄型スピーカ
 だったのです。
 たぶん、それを他に使いたくなって取り替えたと思います。それをネジ止めしていた穴と
 ナットが残っています。(左上の写真の、左下カドの穴と、バリコンのそばの穴)

 夜に製作開始して、夢中になって作っていました。気がついたら、窓の外が明るくなって
 いました。起きている間に、また明るくなるなんて、不思議な感覚を味わいました。

 さっきの写真で、ホットボンドを流し込んで固めてあるのは、特に意味はありません。
 たぶん、ホットボンドを買ったばかりで、なにか試してみたかったのでしょう。
 なんとなく垂らしてみたら、全部埋めないと気がすまなくなった(笑)。
 埋めてしまったせいで、修理をしたくなってもそれは困難です。

 電池は単5、スライドスイッチが2つ見えているのは、ひとつが電源、もうひとつがバンド切替
 です。











■社会人になってから

 1992年3月16日から、研修を兼ねてアルバイトとして新しい会社へ通い始めたと
 記憶しています。最初は製造部門の、基板の実装をする部署で働いていました。


●就職

 最初に就職した会社は、これを(これだけじゃないけど)作っているメーカーで、
 5年ほど在籍しました。

 (昔の「トランジスタ技術」誌の広告より)

 就職した時には10は終わっていて、11と30が主力だったと思います。

 私は同期のK氏と、製造ラインでおばちゃん(失礼、お姉さん)たちと一緒に働いていました。
 上記の機種の基板も作りました。最初はマスキングテープを貼る作業から始めて・・・。

 ペッカーは、ROMやPLDの種類ごとに、アダプターを取り替える方式ですけど、
 この内部の基板は、手貼りで設計されていました。まだCADの台数が限られていて、
 普通に手貼りも併用されていました。

 手貼りというのは、シートにレタリングやラインを貼りこんでいって、パターンの版下を作る
 方式です。これを基板工場ではカメラで撮影して、焼付けのフィルムを作るわけですな。
 私もちょっとやりました。

 どっかに書いたかなあ・・・最初は方眼紙に鉛筆でパターンを描くのです。
 消しゴムで消したりして、修正しつつ、パターンが描きあがったら、今度は半透明の
 シート(マイラーシートというのかな)を重ねて、・・・うーん、もう忘れたなあ。
 途中どこかで、青焼きコピーをして、赤/青の色鉛筆で塗り分ける工程もあったけど。
 基本的に2倍寸で描いていました。

 しばらく製造を経験した後、設計部へ配属されました。設計は1係と2係にわかれていて、
 私は2係でした。1は自社設計(ペッカーなど)を担当、2は他社から受注した設計を行う
 部署でした。各社の仕事をさせていただきました。
 3年ぐらい後、新しくできた開発部へ配属され、自社開発製品に関わりました。

 その翌年ぐらいからだったか、
 ISO9000の認証を受けるための準備が始まり、連日、厄介な書類作りに追われるうちに
 いやになって辞めてしまったのです。

 設計を希望して入ったけど、製造のほうが楽しかったなと思うときもありました。
 でも、ずっと製造にいたら、いまの自分があったかどうかわかりませんね。
 若いときは、夜中もコンベアを回してください、一人でもやりたいです!!と元気でしたけど、
 歳をとったら、そうはいかなかったでしょう。


●「トランシーバを作れ、カマボコ板にラグ板でもいい」

 当時の製造現場のボスから、子供にトランシーバを作ってくれと言われて、ハイ、と
 簡単に返事をしてしまったから大変。

 学生の頃だったら、時間だけはたっぷりあっただろうけど、
 社会人は、行って仕事して帰ってきて、疲れて、あとは風呂入って寝るだけ。
 ほかのことをする余裕がない。

 それ以前に、もっとも苦手な高周波回路・・・やればできるだろうと簡単に考えるのは甘い。
 思い通りにはいかないものです。

 当時の残骸が残っているので写真を掲載します。へたくそですねえ。



 たぶん、パターンを裏返しに焼いてしまって、あとで気づいたんだろうね。
 それで(仕方なく)部品をパターン面に載せたと思う。

 

 懐かしのTDA7000が載っています。

 ここまで作ったところで挫折。

 いつできるんだ?とボスから何度も聞かれて辛かったので、
 デンキのカホでソニーの子供用トランシーバを買ってきて、これで勘弁してくださいと
 渡しました。


●ビギナーのためのトランシーバー製作入門 JA7CRJ 千葉秀明著 CQ出版社

 この表紙の写真がいい。自分にも作れそうな気分になった。

 何度も読み返してボロボロです。

 とにかく自作だ、作ってみろ、と上司から励まされ、
 その前にも遊園地の電気担当の方からも同様に言われていたんで、実行しなければと
 この本を見ながら作ってみたわけです。

 1回目のチャレンジでは、ダメでしたね。簡単に言ってしまうけど。
 まだ、残骸がありますよ。

 2回目のチャレンジをしようとしたのは2007年頃だったか・・・プリント基板を外注に頼んで、
 あとは組み立てるだけの状態で放置、現在2014年。

 すでに入手の難しくなった部品がいくつもあります。入手どうする?設計変更する?


 つまずいた原因は何かというと、測定のしようがなかったことです。測定できないと調整が
 難しい。

 作り始めた頃はテスターぐらいしかありませんでした。
 その後、給料を貯金してオシロスコープを買いましたけど、それだって20MHzのものが
 精一杯でしたから、高周波とは無縁です。

 6石スーパーヘテロダインのラジオは、音を聞きながら調整することもできただろうけど、
 無線機は、そんなもんじゃないと思います。

 ラジオだって、最も音が大きくなるポイントに合わせるのは、実際の放送を聞きながらでは難しい。
 なぜなら、常に音が変わるからです。オシレータからの一定のトーンだと合わせやすいです。

 そんなの、だいたいの所にあわせておけばいいんだよ、と言われそうですけど、いや、
 そうなんです。自分自身の神経質な性格もあって、ピークにピッタリ合わせないと気がすまない、
 それがいけなかったんだろうと思います。

 ディップメータや、周波数カウンタも必要だと言われたら、お金がないんですよね。
 お金がなければ自作したらいいだろうと、それもいいけど、測定器は信頼できるものでないと
 いけないから、正しいかどうか分からないものに頼っていいの?

 一応、秋月電子の周波数カウンタキットは作りました。

 上記の本と同じぐらいの時期に、「高周波回路の設計・製作」(鈴木憲次著/CQ出版社)も
 買って、それに載っているFMワイヤレスマイクを作ってみました。

 ただ、「てい倍」がうまくいかなくて、苦しんだのです。この本に載っている回路では、12MHzの
 7倍の84MHzを使おうとしていました。
 ところが、作ってみたものの、なかなか同調しないんですよね。コアをグルグル回してみても
 ポコッと同調する点がない。それに電波が室内ぐらいしか届かない。

 あれこれ試したけど、うまくいかなくて、また会社で上司に聞いたのです。

 「電波が室内ぐらいしか届かないんです」、といったら、お前トランジスタは何を使ってるんだと。
 2SC1815ですと答えたら、アホか、そりゃftが低いから当然だろうがと。
 ft(トランジション周波数)を知ったのは、そのときですよ。それまで何も考えずにトランジスタを
 使っていた。完全に素人でしたね。
 でも生まれた時からftを知ってる人なんていないから大丈夫だよ。確かに、遅かったかも
 しれないけどね。

 それで、2SC2347などに変えたら、おお、飛びます飛びます。こんなに違うものなのかと。

 本をもう一度よく読んだら、「ftが500MHz以上のトランジスタ」とちゃんと書いてあったのです。
 見落としていたんですね。意味がわからなかったから、スルーしていたんでしょう。

 次に、
 「てい倍もうまくいかないんです」と聞いたら、7倍は難しいだろうとの事。
 結局、合わせ切れなかったんじゃないかなあ。

 いま思えば、コアをグルグル回すんじゃなくて、少しずつ回さないといけなかったのかもしれない。
 どこか微妙なポイントがあるんだろうと思います。

 コアは割れやすいし、割れなくても、何度も回すとスカスカになってしまうので注意が必要だ。
 輪ゴムを細く切ってはさんだりしてしのいだと思う。

 もし回してみても同調するポイントがなかったら、並列のコンデンサを変えてみるとか、あれこれ
 試してみる必要があります。測定器なしだと、何の手がかりもないんで大変だろうけど。

 ちなみに、7倍にするといっても、掛け算をしているのではありません。
 基本波に対して、3倍、5倍、と奇数倍の高調波というものが出ます。スペアナで見れば一発で
 わかりますけど、とくに波形が歪んでいるとよく出ます。高調波をとらえやすくする為、
 抵抗値を小さめにして、もとの発振波形をわざと歪ませたり、矩形波で発振させたりすることもあります。
 その高調波のうち、必要な周波数を共振回路で取り出してやるのが、てい倍回路です。
 84MHzも出ているはずだけど、調整がうまくできなくて、とらえきれなかった、ということです。

 当時の実力では、それ以上のことを思いついて試すことはできず、早々にあきらめてしまいました。


●無線式プリンタバッファ 

 無線機もろくに作れないのに、無線式プリンタバッファというものを思いついて、作ろうとしていました。

 パソコンのプリンタポートからのデータをシリアル変換し、変調して、FMワイヤレスマイクで飛ばす。
 FMラジオの出力を復調し、シリアルからパラレルに戻してプリンタへ送るというものです。
 ただ、ケーブルでつながなくて済むなあ、という程度。

 なんでバッファが必要かというと、
 当時のパソコン(MS-DOSマシン)は、プリントアウトが済むまで、ほかの作業ができなかったのです。
 同時進行をする方法もあったと思うけど、基本的に、プリントが終わるまで待たなければならなかった。
 それがいやなので、プリンタバッファといって、データをいったん受け取って、パソコン側を解放してくれる
 ものも市販されていました。バッファローという会社があるけど、まさにそのプリンタバッファが初期の商品
 だったと思います。社名の由来はバッファだった。


 しかしまあ、当時のメモを見ると、本当に無知だなと思いましたね。単純思考だった。安易だった。
 考えは単純だったけど、実力が伴っていなかった。

 ラジオの製作で、FMトランスミッタとFMラジオを利用したラジコンの記事を読んで、
 これを応用すればデータが送信できるのではないかという単純な発想が始まりでした。

 検討を進めると、いろんな課題にぶち当たりました。
 経験を積めば、どんな課題があるかは見えるんだけど、当時は経験がないから、ぶつかってから
 考えるしかありませんでした。

 受信側、プリンタがBUSYだったらそのことをどうやってPC側に伝えるの?
 ある程度、送信側にバッファを持っていて、そのバッファの空き次第でBUSYをPCに返すのか?
 受信側がちゃんとデータを受け取れたかは、どうやって確認する?
 プリンタがREADYであることは、どうやって確認する?
 データは8ビットで送るけど、制御信号はどうやって送る?交互に送る?どうやって区別する?
 ああ、双方向で通信しないといけなくなるのか。それじゃ送信と受信が2セットいるなあと。
 どんどん複雑になっていきました。

 デジタル部分は何とかなるにしても、本当の課題は無線・・・。

 変調も、単純に0と1を2種類の音に置き換えようとしていました。
 昔のMSXパソコンなどのカセットインターフェースぐらいしか知らなかったのです。
 それはFSKという変調方式ですけど、その程度しか知らなかった。

 誰でも、何も疑問を抱かずに携帯電話など使っていますけど、無線というものは、エラーがつきもの
 なんです。エラー訂正のおかげで、地デジテレビがきれいに見られるのです。
 データが化ける前提で考えないと、そこが有線とは根本的に異なるところです。

 だいたい、ノイズばらまきのマイコン回路に受信機を同居させて、ただで済むとは思えません。

 エラーの場合はどうするんですか? たった1バイトの化けで、あとがメチャクチャの化け文字の羅列に
 なることもあるんです。

 一応、復調回路に使うICを検討したりはしていました。細かいところを検討すればするほど難しくなり、
 結局、アイデア倒れで終わってしまいました。

 いまは便利な無線モジュールがあるので、とても簡単にできるはずです。

 ちょっと前までの無線モジュールは、本当にただの送信機と受信機の機能だけで、
 入力信号をそのまま送信し、受信機は受信したそのままをTTLレベルで出すだけでした。
 変調やエラー訂正は、使う側の仕事だったのです。
 その無線部分がモジュールで手に入るだけでもありがたかったけど、それでも簡単では
 ありませんでした。



●アマチュア無線 

 90年代前半は、アマチュア無線が流行していました。
 同じ社内でも、次々に免許をとって、マイカーに無線機を付ける人が増えました。
 もちろん女性もです。通勤しながら、おしゃべりしていた人も多かったでしょう。

 そういえば、通っていた自動車学校の先生から、前田さん、今度無線の試験受けたいから
 問題集貸してくれんかな?と相談されたこともあります。

 お隣?のソニー長崎(現在はソニーセミコンダクタ九州株式会社長崎TEC)には、アマチュア無線
 クラブがありました。部外者は門から入れないけど、外から見える場所に、シャック(無線小屋)があり、
 大きいタワーが建っていました。会社として、アマチュア無線活動に理解があるんだろうなと思いました。
 井深さんが無線好きで、戦後にNHKの仕事がとれたのも無線仲間からの紹介だったというし・・・。
 いまもあるのかなと検索してみたら、ちゃんと総務省の電波利用ホームページに載っていました。
 JF6ZNT、なんと1kWですか。

 95年頃になって、PHS、携帯電話が普及し始めると、無線をやる人は徐々に減っていったと思います。

 私は、偉そうな事は言えないんだけど、アマチュア無線は、携帯電話にとって代わられるものでは
 ないと思っています。おしゃべりだけじゃないんです。おしゃべりなら電話でも何でもいい。

 アマチュア無線は、無線機を自作したり実験したりするのがメインだろうと認識しています。自分自身、
 そこに興味があります。交信は、その次でしょう。まあ、アンカバしかやったことないくせに、偉そうに・・・と
 言われるだろうけどね。

 一応は開局して、安いトランシーバも買ったけど、いまいち交信には興味がなくて、知らない人と話す
 ことが当時はできなくて・・・電話でも知らないところに初めてかけるのは恐怖でしたからね。

 登録されていない機種だったから、自作機と同じようにして開局の申請書を書いたのです。
 ブロック図を描いたりして。

 結局、誰とも交信することなく、5年間で局免が切れるまでそのまま、電波利用料も払ったけど、無駄。
 役に立たないから、更新もしませんでした。コールサインは、確か、JN6ONGでした。Oh!NGかよ。

 当時の上司の皆さんは、免許を持ち開局もされている方ばかりで、相当なマニアでしたから、
 その人たちからさんざんバカにされました。でも仕方ないですね。交信には、興味がなかったから。

 私のコールサインはOh!NGだからお笑いの種ですね。持っていたラップトップPCは、PC-98LTで、
 LTはローテクですか?と言ったら大うけだったもん。

 ある上司は、マイカーの前後左右にアンテナが付いていました。家にはタワーが建っているとか。
 よほどの無線好きなのは素人目にも明らかです。感光基板を使って、無線機を自作したんだよね〜
 という話も聞いたし。

 それと別の上司には、おい前田、仕事帰りにちょっとつきあえと言われて、なんだろうと思ったら、
 釣具屋に行くぞという。お一人様1本限定の安い釣竿を買うんだって。あれ?釣りを始めたんですかと
 聞いたら、そうじゃない、無線のアンテナに使うんだよ。2本いるんだよと。

 ところで、私が買った安いトランシーバ、本当に笑いものでしたからね。53MHzのFMですよ。3chぐらいしか
 無かったんじゃないかな。バイク同士で交信する用途向けでしたけどね。
 「53MHzのFMで交信するやついるのかよ」と、(無線マニアの)上司たちからバカにされ・・・(ひどすぎる)、
 実際、ずっと受信していても、たまにノイズぐらいしか入りませんでしたからね。
 車に積んで走りながら受信していると、たまにスケルチが切れて、何かのノイズがガーッと鳴る程度(笑)。
 本当におもちゃでした。\6,000ぐらいだったと思う。安いから買っただけ。
 最後どうしたかな・・・、分解して部品取りして捨てたかな。もう忘れたけど、説明書だけ残っています。


●初めての秋葉原

 





 















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