ワンボードマイコンの思い出

 いまさら何に使いようもないけど、思い入れがあって捨てられないモノってあると思う。
 私はどうかと思えば、むかし作ったワンボードマイコンがそうだ。高校2年生の時だったか、3日間集中して一気に作り上げたもの
だった。当時はちゃんとしたパソコンもあったが、ワンボードマイコン(以下、マイコンと略)は、ハードウェアがらみの実験をするのには
最適だった。いろんな回路をつないで遊んでいた。
 私は今年、30になるのだが、この区切りとして、というかけじめとして?、過去を振り返ってみようと思う。
 やっぱりマイコンは捨てられないから、当時この製作でもお世話になった学校と恩師に寄付しようという考えもある。その前に、ここに
そういうマイコンが存在したんだという記録を残しておきたい。

 1988年当時、すでにマイコンを自作する人はいなかった。学校や企業の研修で、キットを組み立てるぐらいだったと思う。
 だが電子工作が好きだった私は、「ラジオの製作」に載っていた連載の、マイコンを作ってみたくてたまらなかった。これが
たぶんこの雑誌最後のマイコン自作記事だと思う。1984年から1985年頃に連載されていた。

 マイコンを作る事を友人に話したら、こういうイメージを描いてくれた:

 ラ製の記事では、複数の差込式基板に分割して組み立て、それをスロットに差し込む形式になっていた。毎月、基板1枚ずつ作ると
いうわけだ。だがこの方式は、基板が高いし、スロットのコネクタや機構部品が必要になりコストの問題があった。
 回路を検討してみたら、うまく詰めれば、ワンボードにできるんじゃないかという結論に達した。CPU、メモリ、I/O、表示操作部の
基板4枚に分けることにして、基板間の配線を整理して、必要な信号線は基板の表面に出し、そこで隣の基板とつなぐようにした。

 もっとも、最初からそううまくいったわけではない。CPU基板だけ先に作った事がある。しかし、何か配線ミスをして、ICが焼けてしま
った。当時は慣れていなかったから、マイコンの回路なんか複雑で大変だった。この失敗をバネにして、気を引き締めて新たに作り直す
事にしたのだった。
 そのときのノート:

 CPU基板だけ作ったって、動作確認のしようがない。データバスをプルダウンしてNOP(00)にし、信号をオシロで確認するという方法
もあるだろうが、当時はオシロもないしそういう知恵もなかった。持っていた知恵は、ただラジオを近づけて、ガーとノイズが聞こえるか
どうかで動いているのを確認するぐらいだった。高校生の身分でお金もなかった。

 ラジオを近づけるといえば、ブザーの無いポケコンでどうやって音楽を鳴らすかという面白い話がある。後輩が、学校の図書室にあった
マイコン本のサンプルプログラムを、ポケコン(Z80使用)に入れてみた。だが、出力用のブザーは備わっていなかったので、彼は考えた。
ポケットラジオだ。ラジオをチューニングして、モニタコマンドでプログラムを走らせると、ゴッドファーザーが、確かに、ノイズまじりの中から
聞こえた。

 まず少ない貯金をいかに節約して、部品を揃えるかだった。まず手元にあるジャンクは極力、利用する。抵抗1本でも、テレビの基板
からとれる奴は使う。ダイオードもコンデンサもだ。基板やRAMなど、手元にないものだけを注文した。ROMは、当時壊れたMZ−1P07
(プリンタ)から2個はずした(2764)。
 いろいろ工面して、注文する部品を絞り込んだ注文書(一部):

 「ラジオの製作」の記事にあったモニタプログラムのダンプリストを持って、学校でROMライタを借用して、そのROMに書き込みをした。
1バイトずつ、友達に読んでもらいながら打ち込んで、最後までいったら、また最初から1バイトずつ確認をして、慎重に作業を進め、
念のため同じ内容を2つのROMに書き込んだ。

 基板をどうするか悩んだ。大きいユニバーサル基板は高い。2000円とか3000円する。どうしたかというと、たしかICB−504だったか、
そいつが安かったので、これを4枚つなぎ合わせた。強度が心配だったが、スズメッキ線の太いやつを波形に曲げて、基板のつなぎ目に
沿わせてしっかりハンダ付けした。また、基板のつなぎ目のネジ穴同士を、金具などでビス止めした。
 ICソケットは、なければないでなんとかなるだろうが、ICを焼いた経験から、必要になると思って全部のICの分を購入した。

 当時のメモをいくつか示す。左から、メモリマップ、プログラムのアセンブルリスト(一部)、音楽データの作成方法。

 中央のはいかにもアセンブルリスト風だが、じつはワープロで打っている。というのは、開発環境は無かったのだ。ハンドアセンブルで
コツコツ作っていた。それを学校へのレポート提出のため、ワープロで打ち直したもの。
 ハンドアセンブルが済んだ分からマイコンに打ち込んでいった。だが保存手段(テープにSAVEするとか)が無く、しょうがないから、
作業が済むまで何日も電源を入れっぱなしにしていた。万が一にも停電したら、暴走してデータが壊れたら、なんて具合にビクビクしていた。

 右のものは、マーカーで塗った部分が消えている。インクリボンが高いから感熱紙を使っていたが、10年以上を経て、こんなになって
しまった。現物は文字が薄く、消えかかっているが、ここに示したものはスキャナで取り込んでから補正をかけて、どうにか判読可能に
したもの。


 1991年当時の写真。もとはカラーだが、それを白黒コピーしてスキャナにかけたもの。なんだか見た感じが、「ネッシー」とか、「宇宙人」
系のあやしい雰囲気だ(笑)。
 この机上(コタツともいう)にあるトランク箱も自作のマイコンで、LED電光掲示板とFMトランスミッタを備えている。専門学校の卒業研究の
課題として決め、当時取り組んでいた。

 そのマイコンは、SPYBOXと名付けた。

 電光掲示板を使っていろいろ遊んだものだった。グラフィックライブラリから開発した。最初は、座標を指定して点を打つサブルーチンを作った。
次に、点の座標を指定すると、そこに点があるかないか返すサブルーチンを作った。そして、水平の線と、垂直の線を描いた。対角線を指定する
と、四角が描けるようにした。さらに塗りつぶした四角も描けるようにした。
 そして、DDAのアルゴリズムにより(小数を扱う必要のない方法)、自由な座標指定で直線が描けるようにした。
 あらゆる座標指定に対して、ソフト上、問題がないか検討した時のノートの一部:

 文字フォントは、卒業研究の仲間に全て作ってもらった。次に示すのは、面白い表示効果をやってみたいと思ってパターンを作った時のもの。





(作成中) →続き(というより書き直し)は、コチラ

戻る